気功治療などあらゆる療法に優る天啓気療に対するお客様の感想など
北沢勇人様 私はイギリスの大学の博士課程で西田哲学の絶対無などについて論文を書いている者です。本山博氏と禅を基本とした西田哲学の比較などを書いています。そちらのホームページが大変充実し色々勉強になりました。有難うございました。ご自身が大変稀な素晴らしい体験をされているので、クンダリーニや悟り等について質問をさせていただきたく、イーメールを書くことにいたしました。お手数ですが、ご返答どうぞよろしくお願いいたします。(このイーメールと同じ内容をアタッチメントとしても送りましたので御活用ください。) 禅の教え、現代の禅においては特に、今ここそのものが、そのままで絶対だ・全てだといいます。悟りにレベルや種類などない、当たり前のことが当たり前にわかるだけなんだ、悟りは難しいのでなく、簡単すぎて当たり前すぎてわからないのだとよく禅などでは言われます。その当たり前が釈迦の教えであるとも説明されます。(言語化される前の状態で、全てが一体である自然な状態のことが現代の禅の中でよく言う見性・悟りだと理解しています。)レベルがあるとすれば、あくまで一つでしかない悟りの内容をどの程度普通の生活に浸透させているかの違いだけである、とよく言われています。クンダリーニで経験される色々な現実の事は禅等では出てきません。(しかし私自身は毎日座っていても禅の悟りはまだ開けません。又クンダリーニの呼吸法やシャーマニズム等もやっています。) 禅では、この世の中と空以外は全て魔境でみんな主観的な作り話か、そこまででないにしても(邪)魔であるとして、中間世界の話は一切せずに、今ここが全てであるとして、この世がそのままでニルバーナだとします。(しかし禅以外の仏教の学派やヨガなどでも三昧の深さなどについてかなり詳しく書いてあります。)アメリカ人で禅の体験をした学者のケンウイルバーなども禅や絶対無(空)は変性意識とは全く関係ないと断言します。しかし私の周りにもいる禅やチベットの仏教などで悟りを得られた人達が、とても絶対をわかっているとはとても思えません。絶対を悟っているのでなく、ある限定されて意味での悟りにしか見えません。西田も見性の体験者ですが私はよく現代の禅にあるような当たり前の当たり前のそれを悟ったのだと思います。しかしこれがどう考えても究極の本当の悟りであるとは考えられません。 しかしどう見ても真剣に追求すれば、この世の中以外の現実があるのは疑いがないようですし、又変性意識が大変重要なのも間違いありません。本山博氏の著作にも詳しく様々のレベルの意識や現実界の話が出てきます。本山博氏は今の禅の多くの悟りや西田の体験した絶対無はまだはじめの段階に過ぎないと書いていますし、釈迦の体験も高いレベルのクンダリーニの体験(と関係ある)であると考えておられるようです。今の禅の考えでは、気やチャクラの話はほとんど出てきませんが、道教でも気のレベルを、精から気、そして神に上げて、最後に虚に還えるといわれます。しかしこちらでの曹洞宗の禅を教えておられる方は、気は全くの幻想で、クンダリーニはただのイメージ化幻想であると考えています。又同じ様に、ほとんどの西田哲学の研究者も絶対無とクンダリーニや気の話は無関係だと考えているようです。(さらに複雑なことに、禅でも小悟と別に大悟という言葉があるように、人によっては見性体験(の様なもの)を何度もして、前の見性体験はまだ本物でなかったと言うようなことを言う人もいます。) また武道家の新体道の青木氏や道教(太極拳)の島田氏もまた絶対無のようなものを体験されました。昔から気と悟りや空の体験は大変難しく入り組んでいます。仏教学の鎌田茂氏はこのことについて呼吸法の観点から、気の伝統と言う本を書かれ、また禅の瞑想と合気道両方されているのですが、禅と合気道という本に出てきますが、目的やプロセスは両者ほとんど同じと考えています。(日蓮宗の影山教俊という方はヨガを取り入れていますが、しかし既存の仏教からしたら、クンダリ二ーや気のことはとても簡単には受け入れられないでしょう。) それでお聞きしたいのですが、 1そちらで言う悟りとよく現代の禅で言う「悟り」や絶対無とご自身の体験は、どのような関係にあるとお考えですか。本山氏のように現代の禅はまだ入門のレベルで止まっているとお考えですか。本山氏はまだチャクラやクンダリーニの十分な活性化がないうちで、体験される現代の禅の絶対無というものの多くの場合は、まだ無と言ってもほんの入り口で体験されるものとお考えです。それともご自身で体験されたものと、現代の禅は(水と空気という別の物が比べられない様に)それぞれ別の方向を目指すものとお考えですか、それとも二つは経験の深さのレベルが違うのですか。 そうですね、最近曹洞宗のお坊さんが訪れたときにも話しましたが、禅ではクンダリニーの事柄やチャクラの事柄は問題視していないようです。しかし、以前には、光の体験やクンダリニーの上昇体験をした方は確かに存在していたことなどは確認されている。その方の意見も、また私の意見も同じなのですが、確かに禅が進んで無意識状態に入ることは事実である。その後もっと修行が進んでくると光の体験や幽体離脱、更には空間から声や音が聞こえ出す事が事実である事から、本山氏の言っている事は正しいと考えられる。 その幽体離脱や光を受ける体験を何度も経験すると、チャクラの覚醒やクンダリニーの上昇体験をするからには、確かに禅は無意識の世界のほんの入り口と言っても良いのではないかと思う。ですから、簡単に言うのであれば禅の修業が本当の意味で進んでくるとチャクラの覚醒やクンダリニーの上昇体験をするように思う。つまり、経験の深さというか本当の意味での自然のあるべき姿となっているかが違いであると思う。ところでチャクの覚醒体験やクンダリニーの上昇体験をする場合に最も注意をしなければならないのは、あくまでも自分自身のこれまでの体験内容が主体となり現象となって現れるので十分理解しておく必要がある。 また、チャクラが覚醒しクンダリニーが上昇したから悟ったとの意見も多い、しかし、私の経験から、確かにクンダリニーの上昇体験後文章にて表す事は全くできない経験をする。その経験の中で最も感じるのは、死を初めとし、様々な事柄に対しての恐怖が極端に無くなる。様々な事柄に対して恐怖を感じられなくなるのは、一般に喜怒哀楽と言われている事柄に対して執着が薄れ、自然のあるべき意識状態になってきたからとも思える。その他には、神は宇宙全てであり、一体のものであること、更に人間もまた宇宙の一つであり神と同一であること。よって、どの方々にも境目が無く同一のものであると感じる。つまり一般に言われている、確かに表裏については存在するが、善とか悪とかは存在しないことになる。何故なら、善も悪も表裏一体であり、神そのものである。要するに、病気をすることも表裏一体であり、自然のあるべき意識状態になっていない為に発生すると考えられる。だからこそ、瞑想や呼吸法によって、心を安定させ、自然の意識状態とは如何なるものかを思考することが太古の昔から珍重されていると思われる。 一般には、サイ能力とか超能力などと言われているが、気功治療や他の様々な治療方法に比較して圧倒的に優っている能力を授かり、例外も確かに存在するが、精神的病気をはじめ、どのような病気であっても改善させる能力が発揮できるようになっている。病気などの治療に来た方の将来についてや、何故にこの病気などになったか、更には、性格や生い立ちなども以前の自分とは比較にならないほど正確に判断ができるようになっている。病気などを治したり癒したりする素晴らしい能力も授かった。しかし、病気を治したり癒したりする能力を授かったと言っても、中々信用されることはないので苦慮している。何故なら、過去にも現在にも問題視されているが、自分はサイ能力者とか超能力者であるなどと称して騙したとか、騙されたとかが多いためと考えられる。つまり、現実にはあり得ないのだとして信用されなくなっているのが現実である。 また更に、どのような問題や事象であっても、全てが必要不可欠であると感じる。例えテロと言われる事柄であっても、必要不可欠と感じるのですから理解に苦しむことばかりである。更に修業が進んでくると、更に様々な体験をすることから考えれば、悟ったとはクンダリニーの上昇体験やチャクラの覚醒体験があった場合だけに言うのではない事が考えられる。要するに進めば進むほど悟りの境地は変化するものであり、一概に私は悟ったなどとは述べるべきではないように考えている。私は悟ったなどと述べる方にあったことがあるが、考えものであると考えさせられてしまうのが現実であった。 無意識の状態にならずにいきなり様々な体験をできるかとのことですが、無理と考えられる。私の場合無意識の状態を通過しない状態にて体験した事柄は全く存在していない。と記憶している。ただし、私のところで天啓気療をうけた直後からチャクラの覚醒は勿論、クンダリニーの上昇体験などを経験する方が存在していることから、数日で悟ったと言われても絶対にあり得ないと批判するのには無理がある。私の場合なども、激しく苦しい修業を長期間に渡り行っていたとは考え難いのであり、必ずしも凄い修業をせずともチャクラの覚醒やクンダリニーの上昇はあり得ると言える。 様々な体験が繰り返される毎に確かに無意識の状態になり、その後以前とは異なる事柄を体験するのですが、繰り返される体験回数が多くなると、その後体験する事柄も変化をしていく、そしてその現象体験の一部である光の体験のみを述べれば、最初の頃は、必ず様々な色がついている。更に修業が進んでくると、体験する光には色が薄くなり、最後には輝くばかりであり色が付いているとは考えにくいように光輝くと解釈してもよい。要するに修業を重ねることによって、アストラルと言われる次元からカラーナと言われる次元に移行していくものと考えられる。 いつの段階でも体験できるのかとのことですが、様々な体験は、確かに7年から8年前後続いていたが、現在は変化を歴然とは感じられない。しかし現在では、幽体離脱しているはずもないのだが、幽体離脱をしている状態と同じ感覚を感じる。光の体験などもしているはずがないのに、やはり光り輝いているように感じる。幽体離脱の場合も光の体験の場合も、以前体験したように色が付いていたり形が感じられないのが不思議でならない。要するに何時までも同じ現象や体験はないのではないか。例えば光が光の世界に合一した場合光は感じられないのではないか、また、同一の次元に合一した場合同一の次元は感じられないのではないか。そうであるかさこそ、私が、病気などになった原因を話しても、病気になり易い次元と合一した状態になっている為、理解できないのではないかと思う。次元を変えるとは、生き方そのものを変えなければならないので、中々変えられないのかも知れない。未知の次元の世界に入ることなのですから当然とも言える。 絶対無とかの表現は不自然と言えるのではないかと思う。確かに無意識の状態にはなる。そして、無意識の状態に入っていくことは実は大変な恐怖が伴っている事も知っておく必要がある。無意識の状態に入る際、全ての事柄がこの世から消えてしまう錯覚と言うか感覚があるからである。詳しくは、私のホームページの【チャクラの覚醒及びクンダリニーの上昇が始まり、想像を絶する恐怖体験及び食事が全く取れなくなる】や【チャクラの覚醒時やクンダリニーの上昇時なぜ心身的苦痛も体験する】 のページなどを参照すると理解ができるのでは。なお、私が手をかざすことにより病気の治療などをした場合に好転反応らしき現象があるが、この現象もまたチャクラの覚醒時やクンダリニーの上昇時に体験する事柄と同一と考えるべきなのかも。つまり、急激に心の変化及び肉体の変化が起こるためと考えられる。よって、大変なる恐怖体験などもあり得ると考えるべきである。 遠隔ヒーリングについては、直接電話を頂きその時に応えたいと思います。 質問は以上でございます。ご多忙の中大変申し訳ございません。本当に高いレベルの体験をされた方は実に少ないようで、そのような方に質問を答えていただける事は本当に素晴らしい事と感謝いたしております。どうぞよろしくお願いいたします。 天啓気療院 北沢勇人様 静岡県○○市 ○○です。
左耳に関しては変化がなく、良好に経過しています。先日の好転反応以来、聴力、こもり、耳鳴りは発生していません。右耳については、こもった感じと、耳鳴りがありますが、日を追って、少なくなってきているようです。現在は昼よりも状態がよく、はっきりきこえる。身体、耳についてはいじょうになります。それは仕方がないのです。長年の身に余るストレスの影響を受けていたからこそ、耳鳴りがしていたのですから、恐怖があるのです。耳鳴りとか突発性の難聴などは、自分にとって聞きたくない事柄などが周囲に存在する際に心が反応し、過度なストレスとなって異常な状態になったのですから。そのストレスが開放されてこそ改善するのです。 次にエネルギー(自身でもエネルギーと呼んでよいのかよく認識できないのですが、)を23日の夕方に突然感じ、いてもたってもいられなくなり『瞑想したい』と強く感じたこと、そのとき強烈なエネルギーを全身に感じたこと、それは先生に気療を受けているようなエネルギー状態だったこと、瞑想したとき、眉間のあたりにも熱を感じた。またそのエネルギーはさらに上がり、特に、すごくマニプラより下が熱くなった。自分自身は自然と集中し、思考、感覚を遮断するようにしているのだけど、瞑想の終了時には自然に下がっていた。瞑想もとても深く入れて気がついたらかなり時間がけいかしていた。がありました。また、過去数回あったのですが、突然よい香りが、つんとはなにつき、そんな香りが発生するものが周囲にはなかった。以上のような状態になりました。これからも様々な不思議な体験が多くあると思いますが、私のチャクラの覚醒体験やクンダリニーの上昇体験を理解するのであれば大丈夫と思います、参考にして下さい。万が一心の状態や身体に急激に変化現象が現れた場合には、必ず連絡を下さい。 先生の気療を受けてから、自分自身の変化の一番大きい事柄なのです。これは自分確信をもてるのですが、しかし、意味と、それをどうすればよいのか、どう考えるのか、自然に任せるだけでよいものなのか、(好奇心もあるので、執着とならないよう意識すべきなのか、)自身の態度がよくわからずとまどっています。すべてを理解しようとは思ってはいないのですが・・なにぶん、先生以外の方には質問、理解はいただけませんので、重ね重ね、恐縮ではありますが、経過をご報告申し上げます。 またいろいろな方のメールのやり取りを拝見させていただき大変参考になります。先生がやはりいろいろな経験から、的確な返答されますので、とてももわかりやすく、気がついたり理解でき、感謝しています。ありがとうございます。それでは失礼します。 ○○ |