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私が体験したクンダリニーの上昇とチャクラの覚醒について
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お客様の天啓気療体験談 チャクラの覚醒、及びクンダリニーの上昇について |
私が体験したクンダリニーの上昇とチャクラの覚醒について あとがき |
私が体験したクンダリニーの上昇とチャクラの覚醒について
ここに記載したクンダリニーの上昇及びチャクラの覚醒の体験談は、私 個人が能力開発を目的に瞑想や呼吸法などを長期間続けた結果体験したものであり、如何なる宗教とも一切関係がありません。
何故体験談について記載しているかと申しますと、私の体験した事柄を明らかにし、私が実施する天啓気療の能力を正確に知って頂きたいからです。
なお、こちらにも天啓気療が気功や気功治療などに優る訳として事細かに記載しています。
ここに、私のクンダリニーの上昇体験やチャクラが覚醒していく時の体験、その後の様々な現象について記載したいと思います。
ところで、様々な現象については、私自身が直接体験した事を事実に忠実に表現しているつもりですが、なにしろ多種多様の現象が複雑に絡み合いながらであったため、必ずしも簡単に理解ができないかも知れません。もし皆さんがクンダリニーの上昇やチャクラの覚醒を志すのであるならば、是非参考にして頂きたいのです。
ただし、必ずしも私の数々の体験現象とは一致せず異なるのかも知れませんが、類似している現象が体験としては必ずあるはずですから、是非お役に立てて下さい。なぜなら、これまでにも私のところへ来て治療や癒しを受けた方のなかにも、クンダリニーの上昇体験やチャクラの覚醒体験をした方がおります。その方を注意深く見守っていると、私と全く同様の事を体験するとは言えませんが、大変よく似ている体験内容であると言えるのです。
私のムーラダーラチャクラの覚醒について
平成五年春頃から、様々な色の強烈な光を見たり感じたりする事が始まって、約半年後頃から始まったと記憶しているのですが、座禅を組み瞑想をしていた時、会陰部辺りが、そうですね、何とも表現が難しいのですが、むくむくするような、ピリピリするような、すかすかするような、もぞもぞするような、変な感じが始まったのです。
その後、尾てい骨辺りが音をたて始めたのです。そう、なんと表現したら良いのか、ゴツゴツと言うか、ゴトゴトと言うか、骨が動いてこすれるような、鈍い変な音がしていた事が頻繁にありました。「これはなんだ」と言っても良いほど、本当にすごく響く音だったのです。
さらに、暫くたった頃から今度は、尾てい骨辺りから背骨にかけて、なにか隙間風のような、水のような冷たいものが、上下している感覚が一年半ぐらいの期間続いていたような記憶があります。後で考えると、この冷たい感じがクンダリニーの活動の始まりであり、上昇活動の始まりであったのかも知れないと思っています。
それから、腰の部分から背骨にかけて非常に冷たくなっていたのです。冷たさを例えて説明すれば、室温が三十度近くある部屋で、瞑想などをするために座禅を組み、腰の周りに毛布を何重にも巻きつけ、その上から布団を巻きつけても、異常に寒く感じていたと表現するような状態であったのです。ですから、自分の場合には、多くの書籍などに書いてあるように、温かい感じがしていなかったのが印象的でした。ですから、全ての人が温かく感じたり熱く感じたりするのではないのかも知れないのです。
クンダリニーの活動が始まったと思われる最初の頃は、下腹部が本当に冷たいという感じでしたが、瞑想修行を続けていくうちに温かさが増してきたので、これで一安心とほっとしていた事を思い出します。後ほど、ある書物を読んでいたところ、この冷たい感じは、長い間トランス状態になっていた場合になりやすいと書いてありました。ところが、私の場合、そのようなトランス状態になっていた記憶がないので不思議に思っております。
その後暫くして、マニプラチャクラとサハスラーラチャクラの覚醒が始まり、クンダリニーの上昇が本格的になった時に、一気に上昇していったのです。その上昇については、【神様は絶対にいると真剣に信じる・そしてクンダリニーが上昇】のところにて、説明をしますのでお役立て下さい。
ところで現在であっても、意識をするとやはり、音はしませんが同じように感じる事は続いています。その他、表現が難しいですが、暖かいような、極端に内部の細胞が活動しているような、何とも不思議な感覚にもいつでもなっているのです。
私のスワディスターナチャクラの覚醒について
眠りから覚め、ぼんやりとしてリラックスしていた時に、以前より下腹部辺りが異常に硬くなっていたのですが、その時は一層硬くなってきたのを感じていたのです。
今日は、いつもより下腹部がさらに硬くなっており、変な感じがするなと思っているうちに、そのスワディスターナチャクラの部分の表面に、内部より黒いもやもやとした雲のような塊がたくさん出てきたのです。暫く、その雲のような塊を観察していると、そのうち今度は、その下腹部の表面に大きな口が開き、自分自身の身体の大きさに比べて数百倍とも言えるぐらいの多くの黒いもやもやとした雲のような塊が、その開いた口からものすごい勢いで先に出ていた黒い塊と一緒になり、空中に放出していったのです。
その直後、身体全体がどうしたら良いのかわからないぐらい、大変だるくなる感じの倦怠感と同時に、体温が急激に上昇し、身体全体の体内に熱がこもったように感じ、さらに、全く我慢ができないほど異常な程に臭いに敏感になり、更には、味に対する感覚が極端に変化をし、食事を取る事が大変辛くなると同時に、周りに存在する全ての物の臭いに対しても、異常な程に敏感になっていたのです。その後、私の家で作る料理であれば美味しく感じるのではあるが、外食にて済まそうとすると、たとえ、多くの皆さんが美味しいものとして認めていたとしても、私としては、あまり美味しいとは感じなくなったのです。ところで、私の治療や癒しを受けた場合であっても、やはり、味覚や臭覚は変化をするようなのです。要するに、食事の好みや嗜好品などの好みが変わると考えれば良いのではないのでしょうか。
暫くしてその身体全体のだるさが取れ、体温が落ち着いてくると今度は、不思議と身体や気持ちがすっきりとしてきて、軽くなり、食事も美味しく取れるようになり、さらに、今日までは、睡眠時間を八時間〜九時間以上取らなければならなかったのが、ここのチャクラの覚醒が始まった頃からは、二時間〜三時間前後少なくなり、本当に少ない時には、以前の約半分の睡眠でも大丈夫になったのです。さらには、いくらでも、休まずに仕事ができるような気分にもなっていた事を覚えています。この件は、今現在であってもやはり同じように続いているのです。しかし、外食の味や臭覚については、あいも変わらず美味しいとは認めがたいようなのです。
また、夜など一眠りした後にふと気付くと、必ずしも霊であるとは断定できないが、この当時は頻繁に霊のようなものが見えたり、感じたりする現象もあった事を思い出します。しかし、現在では全くそのような現象はなく安心をしているのです。霊については、あまり知っておく必要はないと思われるので省略することにします。しかし、霊については、確かに見え、そして、感じる事があるのです。そこで注意をして頂きたい事は、呼吸法や瞑想は、神の世界とか、愛の世界とかと言われているものと、同一の状態になる事を目指して修行をしているのであって、霊の世界を目指して修行をしているものではないのです。従って、霊が見えたとしても気にしない事が大事なのです。要するに、霊を気にしていたのでは、その霊の次元に共鳴した事になり、そして、修行は完結した事になるのです。よって、その上位次元にあるとされる神の世界の次元とか、愛の世界の次元などと言われる次元には、到達する事は当然として無理となるのですから、注意が必要なのです。よく言われる事ですが、霊が見えたなどの話は、次元の低い位置に自分自身の意識がある事を自覚すべきなのです。
その後、瞑想などをしていると、大量にではありませんが、スワディスターナチャクラの部分辺りから、握りこぶし大の黒いもやもやとした雲の塊のようなものが、次々と連続して出て来るのは、何度も見たり感じたりしています。
ところで、他のチャクラの場合には、様々な光やエネルギーが、チャクラのあるとされる部分から直接出て行く事は、勿論あったのですが、入ってくる事も勿論確認できているのです。ところが、ここのチャクラの場合には、出ていった事は確認ができているのです。しかし、強力な光に包まれた事はありますが、様々な光やエネルギーが入ってきたとの意識は、将来は別として現在のところはないようです。
ここのチャクラの場合には、アナハタチャクラの覚醒の始まりに放出した場合の物質のように、人の形状はしていなかったのです。この事を考えると、各チャクラによって覚醒する時の感じ方や、見えるものなどは各々特徴があると思われるのです。
ところで、後でよく考えると、その開いた口が閉じたのかについては、どうもあまり記憶になく現在でもよくわからないのです。
私のマニプラチャクラの覚醒について
【神様は絶対にいると真剣に信じる・そしてクンダリニーが上昇】のところでも紹介しますが、身体中が辛く悩んでいた時に、マニプラチャクラ辺りの腹部の内部が最初に熱くなり始め、ボコボコと沸騰しているように音が聞こえ、そして、感じていたのです。その直後、例える言葉がないほどに、その腹部の内部が高温になって、異常と言うほどお腹が張ってきたのです。その次は、その内部が真っ赤になって見えてきたのですが、その真っ赤な部分が今度は、最初は小さな炎であったのですが、段段と大きくなって、真っ赤な炎をあげながら燃えているのが見えてきたのです。その炎が、今度は、異常と言うほど張っていた腹部を突き抜けて、外部まで吹き出してきたのです。その後、腹部の内部も、外部も、真っ赤な炎の海のようになっていったのです。その後暫くすると、その真っ赤な炎が青白い炎に変化をしていったのです。その後今度は、その青白い炎が身体全体を包み込み、更に、身体全体の内部からも、青白い炎が噴出してきたのです。
その時に起こった様々なる現象体験は、常識では全く考えられない事であり、表現の方法がない程の恐怖感を覚えていた事を思い出します。なぜなら、苦しいまでなら我慢もできますが、腹部の中が急激に熱くなり沸騰するように感じたり、腹部や身体の中には炎そのものの発火する物などはないはずなのに、炎が腹部の中から燃え出したり、その炎が腹部の中から外部に噴出したり、また更に、自分の身体自体が燃え出すなどの現象は、常識ではどのように理解をしようとしても、絶対にできない事柄なのですから。従って、私が述べるまでもなく、誰であっても想像をすれば、いか程の恐怖体験であったかが理解できるものと思います。
その時私は、恐怖におびえながらも、身体の中に滞った、そして、汚れている自我意識やエネルギーを燃やし尽くしているようにも感じたのです。その青白い炎を暫らく見つめていると、今度は、透明に近い炎となって暫くの間燃え続けていたのです。その現象は、時間にしてはっきりしている訳ではないが、約二時間半〜三時間は続いていたと記憶をしております。ただし、私としては、この二時間半〜三時間の時間は、あまりにも劇的であり不思議な事柄のため、途方もない程の時間として感じている事も事実ですので記載しておきます。
その後、クンダリニーの上昇と思われるが、身体の中心部を上下方向に、火柱と言うか、炎の柱というかが立ったような現象状態になったのです。その時、身体がこの炎により、焼き尽くされてしまうのではないかと大変不安になっていた事を思いだします。
【私の病気の体験から】のところでも記しましたが、このチャクラが最初に活動を始め、覚醒したように私は感じているのです。そして、マニプラチャクラに関係のある脾臓系も、正常に機能する状態になり、脾臓系に属する胃や腸の機能も優れるようになり、下痢や便秘も改善してきたのです。
チャクラの覚醒はその方の、働きすぎる特徴のある部分から覚醒する事も、この事実から判明するようなのです。もし覚醒が始まるとすれば、特徴のある部分からと思っていると良いのではないでしょうか。働きすぎるとは、弱い部分と解釈しても良いように、私としては感じているとしておきます。ですから、クンダリニーが上昇したりチャクラが覚醒する方は、過去に様々な病気などの経験者が多いとも言えるのです。
私のアナハタチャクラの覚醒について
眠りから覚め、ぼんやりとしてリラックスしていた時に、以前より時々胸元が何かに押さえられているように感じる事や、変な圧迫感のある痛みがあったのですが、(今日はいつもより胸元が何かに押さえ付けられている感じが強いな、それと、いつもより胸元が何となく痛いな)と思っていた時、あれ何だ、おかしな声が聞こえていると聞き耳をたてていると、数千人とも思え、そして、感じるような人々の声が一斉に聞こえてきたのです。その時の驚きは、表現する事が難しく、どのように書き記したら良いのかわからないほどであったとしておきます。
その直後、胸のアナハタチャクラの部分に、観音扉を開けたような大きな口が開き、そして、その内部より空中に、自分自身の身体に比較して数千倍と表現してもよいほどの量で、それこそ、言葉では言い尽くせないほど大量の黒っぽい色をした塊が、列をなして勢いよく、例える事ができないほどのスピードにて、・か遠くの方まで飛んでいったのです。
その塊に注意をして見ていると、なんと不思議であろうか、その塊の正体は真っ黒ではあるが、人間の形をしたものでごく小さいものの集合体ではないか。この塊は、自分の中に潜んでいた良からぬ自我意識や、ストレスの元ではないのかと考え込んでしまった事が思い出されます。
今度はその直後に、本当に綺麗な様々な色をした光の塊が、口の開いたアナハタチャクラの部分から、自分の身体の大きさに比較して、数千倍とも言えるほど大量に勢いよく入ってきたのです。光の塊が勢いよく入ってきたのと同時に、身体中が何とも言えないぐらい興奮をし、更には、全く表現ができないように、嬉しくて、嬉しくて、押さえ切れなかったような気がしていた事を思い出します。その直後今度は、身体全体がとてつもなく熱くなり、しかも、壊れてしまうぐらい勢いよく、本当に激しく、身体のどこと言わず全てが勝手に動き出し、恐怖に駆られていた事が記憶にあります。ここのチャクラの覚醒体験と思われる事があった後、治療の能力や癒しの能力が、数段あがったと言うか、向上したと言うか、そのような気がしていた事を思い出します。
【私の病気体験から】のところでも記しましたが、私は、多くの方々を喜ばせたいと、ボランティアの意識や誠心で、薬剤師の先生のところへ、勉強も兼ねながらであったが、病気で悩んでいる方々を連れて行ったり、私の住んでいる福島県に先生を招き、多くの方々を診て頂いたりしていたのです。ですから、この事を考えると、私のアナハタチャクラにも、元々の性格としての特徴があったようなのです。アナハタチャクラの性質や特徴は、自然の法則に即した自然なる愛に関する場合と、攻撃に関する場合の二面性を持っているのですが、私の場合には、双方の面を持ち合わせていると思われるのです。チャクラの覚醒は、その方の働きの特徴ある部分から覚醒する事も、この事実から判明するようなのです。要するに、自然の法則に即した自然なる愛のあり方や、心のあり方が最も大事なのです。
この件でもわかるように、もし皆さんが本当に病気から開放されたいなら、そして、チャクラの覚醒や、クンダリニーの上昇を試みたいのなら、私の行為や、心のあり方を見習うと良いのではないでしょうか。ただし、あまりにも単純ではあるが、金銭が絡み損得勘定が介在しているため、手数料を徴収しているのではないかと疑われ、理解が得られない場合が多く、簡単なようで簡単ではないので付け加えておきます。
ところで、その開いた口が閉じたのかは、スワディスターナチャクラと同じで、どうもあまり記憶になく現在でもよくわからないのです。
私のヴィシュダチャクラの覚醒について
最初の頃は、瞑想をしていた時、喉の辺りが不思議な感じで音をたて始めたのです。そうですね、表現が難しいですが何と言ったら良いのか、ゴツゴツと言うか、ゴトゴトと言うか、骨がすれるような、鈍い変な音がしていた時期が十日間ぐらいありました。本当にすごく低く響く音だったので不気味な感じがしていたのです。この様々な感じ方は、ムーラダーラチャクラの時とよく似ていたと考えても良いような気がいたします。
平成五年春頃から、様々な色の強烈な光を見たり感じたりする事が始まって、約三年半後頃から始まったと記憶しているのですが、一眠りして、ふと目を覚ました時とか、瞑想をした時とかに、心が鎮まりリラックスした状態になると、喉の奥の方から、あるいは、腹の底からと思える場所から、大変大きな声なのか音なのか、言葉と思えば思えるような、うめき声のような変な音声が、しかも、その音声は、約四年間以上の長期に渡り毎日何度もと言っても、言い過ぎではないほど続いていたような気がしています。
その声と思われる音声に聞き耳を立てていると、どこかの国の言葉であるようでもあるし、確かにリズムがあるとも感じられ、これは、話をしていると理解をしてもいいのではないかと思えるのですが、全く聞いた事がない言語のようでもあり、不思議でならなかったのです。そこで、もっとよく聞いていると、よく言われるマントラのようでもあり、ヒキガエルが話をしているようにも理解でき、御経を読んでいるようにも理解でき、更には、宇宙の言葉とも取れ、理解に苦しむ事だらけであった事が思い出されます。その時最も悩んだ事は、その声らしき言葉を、意識して止めようとすると止まるのですが、暫くして、再びリラックスしている状態になると、その声と思えるものが以前と全く同じく勝手に出てくるので、夜の場合などには、ぐっすりと眠る事ができずに寝不足になり、実に困った事を記憶しています。その声らしきものの大きさは、私自身の普段の話し声と比較すると、・かに大きい音声であったため、私自身も驚いていたのですが、隣で寝ている妻はもっと驚いていたと思います。それと、その他に、その当時はすごく息苦しくなり、喉の詰まりが長期間に渡りあったような記憶があります。
後日、平成十一年末頃の朝方に、神棚の前で座禅を組んで瞑想をしていると、他の方々が聞いていたら、あいつは、おかしくなったと勘違いされるような大きな音声が、再びうめき声や叫びのように出てきたのです。そのうめき声や叫びの大きさを例えれば、百メートルの距離が離れていても聞こえてしまうほど大きな音声と思えるものであり、驚かずにはいられないものだったのです。その大声らしきものが出ていた時間は、約三十分程度の長時間であったため、驚かずにはいられなかったと記憶しています。それと、その大声のようなものが出た時に、これまでに悩んでいた大変辛く、息苦しかった喉の詰まりが改善してしまったのです。その後、言葉と思えば思えるような、変な声が喉の奥の方から出たり、腹の奥から出たりする事があった事はあったのですが、本当の意味で少なくなり、本当にすっきりとした感じになったのです。この大きな音声、うめき声や叫びのようなものが出た時に、もし私が住んでいる所が田舎ではなく、都会の真中であったなら、何事かと大騒ぎになるのではないかと、考えさせられる程の大音量であったのです。
ところで、様々な音声によるマントラを唱える事により、各チャクラが早く覚醒すると言われているわけですが、この事を考えると、無理をしてマントラを唱える必要がないのではないかと思われるのです。むしろ、マントラを唱える事により、急激な変化に追い付いて行けずに起こってしまう偏差現象の重大さを考えれば、なおさらと思われるので、マントラを唱える事に対しては注意が必要と思っています。
ところで、手かざしにより治療をする場合には、アナハタチャクラの能力にて治療をすると、他の書籍などには書かれている事が多いようです。しかし、私が治療中に感じる事は、現在においては、ごく少なくはなっているが、アナハタチャクラの能力にて無理と思われるお客様の場合には、ここのチャクラにも変化が現れるのです。従って、ここのチャクラも、やはり、病気の治療や癒しに対しても関係しているものと思われるのです。
ここのチャクラにおいても、ムーラダーラチャクラの時と同じで、後日になって黒い雲の塊のようなものが、頻繁ではないのですが出ていった記憶があります。
私のアジナチャクラの覚醒について
ここのチャクラについては、覚醒して口が開いたという衝撃的な自覚が現在のところはないのです。ただし、とてつもない、そうですね、太陽が千個一度にとは言えないまでも、とにかく強烈な光が、直接額の部分めがけて入ってきたように幾度となく感じた事はあります。そのたびごとに、この体験はもう衝撃はあるし、恐ろしく怖いので、避ける事ができるなら避けたいと思うぐらいの恐ろしさがあった事を思いだします。
その時なぜか、透明に近い白い強力な光を見た場合には、最初に激しい下痢があり、暫くすると今度は下血が非常に激しくあり、驚いた記憶があります。その下血があった場合などには、あまりに大量であるため、便器が真っ赤になると言っても言い過ぎではないほど大量であったので、今現在でも、背筋が凍るように鮮明に思い出します。
また、強力な光のエネルギーが入ってきたと思える時や、強力な光を見た場合など、更には、強力な光りに自分自身が溶け込んで和合し、一体となったように見えたり感じたりした場合などには、身体が不思議なほど熱くなる現象や、全身が激しく動き出す事、表現の方法がないほどの安堵感と、幸福感がある事などについては、チャクラに関係がないところに対して体験があったとしても、同じくあるようなのです。
この部分、アジナチャクラは、大変感じやすく意識などをいたしますとすぐに、なにか空気の幅の広いベルトを巻いているような、しびれているような感じがしてきます。また、この部分にて、色々な映像などもまた見ているような気が致します。更に、なんと表現したら良いのか迷いますが、目には見えていないのですが、何かの力が無理やりに入ろうとしているように圧迫感を感じる事は、少しの意識をした場合であっても感じてくるようなのです。
ところで、よくアジナチャクラのところが覚醒すると、霊とか神様などの声が聞こえると多くの書籍などには書かれています。その霊とか神様などの声と思われるものは、毎日のように聞こえるのでありますが、霊とか神様などからの声と思えるような声は、どうも、この部分か、サハスラーラチャクラから聞こえてくるようなのです。その声と思えるものは、はっきりとして聞き取れるのですが、遠くからこだまするような、響くような感じに聞こえてくるのです。聞こえてくるというより、感じてくると表現したほうが正しいのかも知れないような気もしているのです。なぜなら、聞こえてもくるのですが、それと同時に、意識上や、心の中にも感じてくると表現しても、正解であると思えるのですから不思議でならないのです。
また更に、私が何かの答えを求めようとして、意識上にて問いただすと、確かに返事がささやくように聞こえると同時に、心の中に浮かんでくる場合もあるのです。この場合は、ささやくように聞こえ、更に、意識上に感じてくるのであって、はっきりと音声として聞こえてはこないようなのです。
しかし、私に対して音声として聞こえてくる限りでは、どうも、霊とか神様などの声ではないのではないかと解釈しているのです。私の場合、今のところ、色々と多くの声が聞こえますが、ほとんどが自分自身を戒める内容で、自分自身の心の奥から、自我意識そのものの、内なる声として聞こえてくるような気がするのです。例えば、「修行がまだ三段階は足らないからこのようにした方がよいぞ」とか、朝起きるのがあまり遅かったりすると、「早く起きろ時間になったぞ。今日は良い天気のようだぞ」「こっちの方が良いと思うぞ」などと、聞こえてくるのです。なぜかなと、自分なりに自問自答してみますと、どうも、霊や神様ではなく、自分自身の奥に秘められた記憶や願望、自我意識などの意識ではないかと推測できるような気がいたします。また、今日まで考え悩んでいた事柄の答が意識上に浮かぶと同時に、その事に対しての答が音声としてはっきりと聞こえてくる事もあるのです。
確かにささやくように聞こえてくる場合には、もっと広い意味での答であるようなのですが、現在のところ、完全なる確信を持っているわけでもないのでここでの記載は避けます。ただし、もっと瞑想修行が進んでくると、私自身の考えや感覚も変化すると思います。また今後、全く変化してしまうのかも知れませんが、今現在ではそのように解釈しているのです。後日変化があった場合には、他の機会に発表をしたいと思います。
ところで、よく犯罪者が神様からの命令が聞こえたので、罪を犯したと応える場合があります。その場合であったとしても、間違いなく聞こえていると判断したとしても、間違いではないと思われます。要するに、いつも心に思っていた自我の意識が、自分の自我意識に語り掛けてくるものと思われるのですから、常日頃の心のあり方や、意識のあり方が大事なのです。常日頃から、他人を恨んでいたり、攻撃をしたいなどと意識していると、現実として実行されると思われるのですから、最大限の注意が必要なのです。要するに、願望が達成されるのです。この件と同じように、家庭内の様々な出来事も、そして、病気などの場合であっても願望が達成されるのです。
それから、自分の身体から意識が外れた場合に、感じたり見えたりするのは、そう、一瞬の間に数千キロメートルも飛んでいったり、元いた場所に瞬時に戻ったり、自分の希望する時代や場所に行ったりできるのです。そうですね、自分の子供の頃は何をして遊んでいたかなどの様子や、人類がこの世に誕生する以前と思えるような場合もあります。一般的な常識では計り知れないのですが、行ったり見たり、感じたりもする事ができるのです。それはどうも、自分自身の脳内に、生物の遺伝子として何代にも渡り記憶された部分を、見たり感じたりしているようにも思えるのです。この件を考えると、様々なる恐怖などにて味わったストレスの場合なども、記憶として蓄積されていると思われるのです。よって、生まれながらにして極度のストレスの記憶があった場合には、様々なる病気などに悩む事が理解できるのです。これが、因縁と言われている事柄なのかも知れないのです。
その意識が外れる際、全く距離や時間に左右される事がなく、本当に自分自身がその物質や、動物自体になったように、そうですね、普通肉眼で見た場合にはっきりしているように見えますが、それなどとは比較にならないぐらい、もっとはっきりと識別、そして区別でき、感じたり見えたりするのです。その際、意識をすればどのようなものとも同化する事もでき、その同化したものが自分自身のようにも感じ、そして、その同化した自分自身の意識のようなものからも、周りに存在するものや状態が判別でき、また、意識上にも、感じる事も見る事もできるのです。このように表現すれば納得がいくのではないでしょうか。事実そのように感じるのですから、理解をする事はなかなか難しいと思います。
最近では、瞑想などをしていると意識が外れる事がなくても、色々な映像が見えるようになってきています。さらには、寝床に寝ようとして横になり、目を閉じてリラックスした場合や、瞑想を始めようとして目を閉じた場合などには、すぐに、自分自身の肉体が消え去ったようになり、意識だけになるので、自分自身がどのような姿勢にて寝ているのか、それとも、座っているのか等がわからなくなっているのです。また、自分自身の肉体があるはずなのですが、例えば、目を閉じた場合には、確かに五感により感覚として感じてはいるのですが、肉体については、全く理解ができないのですが、意識上には浮かばず、透明になっていて何もないようにも感じるのです。ですから、自分自身の肉体は、意識としては存在すると感じているのですが、肉体としては感じていないと理解すればよいようなのです。しかし、このような事は、信じられないのかも知れませんが、確かにそのように感じるのですから驚きなのです。その後、一瞬にして意識が消え去り、様々なものが見えたり感じたりするのです。現在では、想像以上の恐怖感は感じませんが、最初の頃は、一瞬にて意識が消え去る時の恐怖感については、耐えがたいものであったと記憶しています。
その一瞬に意識が消え去る時、自分自身の意識は勿論、形あるものも、形がなく見えないものまですべてが消えるのです。すべてが消えるとは、宇宙全体が一瞬に消え去るように感じるのです。よって、想像する事ができないほどの恐怖感があるのです。そう、この世のもの全てが一瞬に消えたと感じるのです。その事を簡単に言ってしまえば、自分自身も一瞬に消えると感じるのですから、死んでしまったと錯覚を起こすぐらいの恐怖感なのです。従って、死を恐れているうちは、この恐怖感には耐えられないのかも知れないのです。
現在では、この額の部分に、自分の目の三倍ぐらい大きな目の形状と類似しているようなものが見え、その目の形状と類似しているようなものの中から、色の付いていないエネルギーのようなものが、回転をしながら出たり、入ったりしているものが見えたようになったり感じたりする事があります。
その他に、自分自身の意識自体を、ここと意識した場所に送る事ができるようにも感じられるのです。不思議ではあるのですが、最近ではそのような気がしているのです。また、色々な映像や光を見たり感じたりした場合には、その都度、身体中不思議な嬉しい感情と言うか、とてつもなく、不思議な感じになる事も実に多いのです。
自分自身の身体はおろか、周りまでも強力に輝く光に包まれ、そして、輝き出すのも、やはり、この部分のチャクラが関係しているような気が致します。ですから、ここのチャクラを第三の目などと呼ぶと思うのです。
私のサハスラーラチャクラの覚醒について
マニプラチャクラの活動が活発に始まり、そして、炎が噴出してきて覚醒が始まったと認識したのですが、その後、ほぼ落ち着いた直後に、クンダリニーの上昇が起こり、そのクンダリニーの上昇現象後、表現の方法がないほどにほっとしてきて、安堵感が生じ、嬉しくて気が抜けたようになり、更には、意識が飛んだようになり、その後、ふと気が付くと、頭の上面背部周辺に大変気持ちが良い暖かさを感じたのです。
なぜに暖かく気持ちが良いのかとよく観察し、よくよく意識すると、仏陀や、キリストなどの背後上面などに描かれているような、円形状の大きな輪の形状をした光が、私の背後上面にも、同じように、しかも、金色に光り輝きながら見えたり感じたりしていたのです。
この光は、何度も見えたり感じたりもしているのですが、この円形状に見えたり感じたりする光りの輪の場合には、他の様々な強力な光や、その他の光り輝くものを見た場合や感じた場合などと比較すると、全く比較にならないほどの幸福感と安堵感があり、何とも表現をする事ができないものである事を述べておきます。
これはもう、例えるものがないぐらい気持ちが良いと暫く味わっていると、今度は、頭の天辺、サハスラーラチャクラの部分に突然、大きな口がイソギンチャクの頭部が開いた状態に似た形状に開き、その中から、手筒花火に火を付けたように、最初は少しの量であったが、段々と多くなりながら、大変きれいな様々な色の付いた炎が噴き出した状態になって見えたり感じたりしていたのです。その後、暫くすると、その炎で筒のような形状になった部分が炎を頭部上面上空に噴出しながら、気が遠くなるように本当にゆっくりと徐々に時間をかけながら、下腹部のスワディスターナチャクラのところまで下がって行ったのです。
私としては、この現象もやはり、クンダリニーの上昇の変形したタイプに間違いがないと確信したので、いっその事、クンダリニーの上昇の時と同じように、下方にも突き抜け、そして、伸びて行ってくれないかと意識をしながら、心を鎮め願っていると、今度は下の方向にも伸びて行き、最下部のチャクラ、ムーラダーラを突き抜けていったのです。その後、クンダリニーの上昇時と同じで、表現のできないような嬉しさが込み上げ、表現に困るような大変なる興奮をしていたのです。そのうち、クンダリニーの上昇時と同じように、気が遠くなり意識を失ったようになったのです。
その後、ほとんどが、クンダリニーの上昇時と同じであったが、ふと気が付くと、私は地球の・か遠くの宇宙空間に横になり、浮いている状態に見えており、そして、感じたのです。さらには、地球は、・か下側に、サッカーボール大の大きさに見えていたのです。その時の地球の輝きは、青く透き通った色にて輝いていて、これまた、表現が難しいほどきれいであったとしておきます。他の無数に存在する星も、握り拳大であったり様々な大きさなのですが、やはり、透き通ったような様々な色にて輝いていたのです。全く不思議で理解ができないものの、私はそのように感じたのです。
その時、自分の身体の意識は、地球の数百倍もあるように大きく見えたり感じたりしていたのです。この様々に見えたり感じる際には、自分自身の肉体はなく、理解に苦しみますが、透明人間にでもなっているように見えたり感じたりもするのです。また更に、その炎のような筒の柱が、私の身体に比較して、絶対にこんな事があるはずがないというように、非常に太く上下に何万キロメートルもあるかのように、途方もなく長く伸びて見えたり感じたりしていたのです。非常に太くとは、自分自身の身体もとてつもなく大きく感じるのですが、その身体と比較しても、絶対にあるはずがないのではあるが、身体の意識より太く見えたり感じたりしていたのです。その現象が、宇宙空間に浮いている状態と地上にいる自分が一緒に見えながら、そして、感じるのですから、理解するのにも無理があるのかも知れないのです。しかし、私自身は事実そのように感じたのです。
そうですね、マニプラチャクラの覚醒が始まってから、この現象が終了するまでの時間は、約七時間半前後の体験であったと記憶しています。要するに、そのような理解のできない、そして、得体の知れないような様々な現象体験が一晩中続いていた事になるのです。
そのクンダリニーの上昇の変形タイプ現象があった後に、神様に直接会った感覚になったり、神様からの声と思われる声が聞こえ出したり、全てが神様からの贈り物のように自覚したり、嬉しくて、嬉しくて涙が出て止まらなくなったり、愛とは、自然とは、神様とは、宇宙とは、何であるかの意味がなぜか理解する事ができるようになってきたのです。また、様々な光の体験や幽体離脱、身体が激しく動く事や、訳のわからない声のようなものが出たりする様々な体験については、より一層現象として現れ易くなり、頻繁に起こったと記憶しています。そのようなでき事があった以後、体もすこぶる快調になり、更に、一段と病気の治療をしたり癒しをしたりする能力が増してきたのです。
このサハスラーラにも、そうですね、太陽が千個一度にとは言えないまでも、とにかく、強烈な光が直接頭頂部の部分めがけて入ってきたように幾度も感じ、また、見た事があります。そのたびごとに、この体験はもう衝撃はあるし、恐ろしくて怖いので、避ける事ができるなら避けたいと思うぐらいの恐ろしさがあった事を思いだします。
それと、アジナチャクラの時と同様に、下痢と下血が非常に激しくあり、驚いていた記憶があります。その都度、大変恐ろしく感じていたのですが、そのうち習慣になり段々と慣れてきて恐ろしさもあまり感じなくなり、心も、身体も、嬉しい感情というか、安堵感のような、しびれたような不思議な感覚になったり、また更に、リラックスなどをしたりすると、激しく身体全体がガタガタと、ところかまわず勝手に動いたりしていたのです。
ここのチャクラが覚醒すると、霊とか神様の声が聞こえるとされていますが、私が現在理解できる事は、「私のアジナチャクラの覚醒について」のところでも述べているので参考にして頂ければ幸いです。
この部分も大変感じやすく、意識などを致しますと、すぐに、むずむずというか、ピリピリと言うか、エネルギーと言うか、何かが回転をしながら出入りしているのが感じられるのです。また、アジナチャクラと同じで、空気の圧力と言うか、よく理解できないのですが、圧迫感があり、更に、様々なる意識も、ここと意識した場所に自由に送る事もできるような感じになっている気もするのです。
【光が見え出す】
チャクラの覚醒が始まったかどうかの目安の一つに、光が見える事が条件とされていますが、とにかく光が見えてくるのです。ところで、私のところを訪れる方々の中にも光が見えるという方が時々おりますが、よく聞いてみると、目を閉じると目の前で様々な色をした光が大きくなったり、小さくなったりしながら回っているなどと応える事があるのです。しかし、そのような光などではなく、自分の身体以外の部分と言うか、空間と言うか、全てが光り輝く場合や、太陽が一度に千個と言えないかも知れないが、とにかく強烈な光が見えたり感じたりするのです。また、周りにあるものがすべてと申しても良いほど、様々な色にて光り輝く場合や、その時により様々な色は異なっているが、自分自身が光り輝く場合や、神様の世界と言ったらよいのか、天国と言ったらよいのか、ともかく、そのような世界のような現象が、様々な色に輝きながら見える場合や、死後の世界と思われる現象が、様々な光に輝きながら見える場合や、過去の世界と思える現象が、様々な色に輝きながら見える場合などもあります。よって、よく理解ができるはずです。
さらには、よくキリストや、仏陀の背後上面になど描かれているが、丸い輪であって、金色に光り輝くものなどが見える事でもすぐにわかります。この金色に輝きながら見えた場合の事は、「私のサハスラーラチャクラの覚醒体験」のところに記載してありますので是非参考にして下さい。
【幽体離脱が始まる】
私が幽体離脱を最初に体験したのは、平成五年春頃から様々な色の強烈な光を見たり、感じたりする事が始まって半年後頃であったと記憶をしております。夜になり睡眠を取り、一眠りしてふと気が付くと、あれ、自分の意識が空中に浮いていると感じたのが最初であったと記憶をしております。その時、以前より、肉体と
貴方の魂は別物であって、肉体は仮の宿であると多くの方々から話には聞いてはいたが、確かにその通りであると幽体離脱を体験して初めて納得をし、そして、理解した事を思い出します。
幽体離脱とは、チャクラのある位置から、意識というか、魂というかが肉体より抜け出ると言われているのです。しかし、私はよく理解をしていなかったので、これは良い機会であると思い、数千回にも及ぶ幽体離脱を体験したので、どのチャクラのどの部分から抜け出るのかを観察していたが、どの部分から抜け出たのかは全くわからなかったのです。要するに、肉体より意識全体が一瞬の間に離脱し、その離脱した後に、肉体と意識が別々に離れている事に気付いたのであり、どこのチャクラから抜け出たとか、本当にチャクラの位置から抜け出たのかは、実のところ、はっきりとは、わからなかったと言った方が良いと思います。
ところで、よく知られている事は、幽体離脱をする場合には、トンネルらしき空間を潜り抜けるとの表現があるが、またまた考えてみると、自分の場合には全くそのような意識がなかったのです。その後、数え切れないほど幽体離脱を経験はしているが、一度たりとも、そのような体験がありませんでした。
幽体離脱をする際に、幽体離脱とは、現実にはどのように見え、また、感じるのか意識を鎮めじっとしていると、確かに、自分自身の肉体は横になり休んでいるのです。もう一方の自分自身の意識と言うか魂と言うかは、自由な動きのできる意識だけのようにも感じるのです。その意識に対して、自分自身の常日頃考えている内容の意識状態を問いかけると、その答えが即座に返ってくるようなのです。その答えとは、自分の寝姿を見たいと意識すると、自分の寝ている姿が見えるのです。この場合、瞑想中であっても、寝ている場合と全く同様である事を記載しておきます。また、過去にも行って見てはいるが、もう一度あの場所を見たいと意識すれば、間違いなくその場所が瞬時に見えるのです。そして、その過去に行ったところの周囲を見たいと意識すれば、これまた、周囲が紛れもなく見えてくるのです。それから、その周囲の気温や天気、高さや距離、方向などの環境状態を知りたいと意識すると、またまたはっきりと、感覚として、視覚として、聴覚として、触覚として、やはり感じ取れるのです。更に、距離にして何光年も遠いところに行きたいと意識しても、やはり、瞬時に移動しているのです。その距離にしたら、判別が付かないほど遠いところに意識があるのであるが、その遠いところから、地球の自分自身の住んでいるところを見たいと意識すると、なぜなのか理解できないが確かに見えて判別がつくのです。
もっと不思議なのは、その何光年も離れているはずなのに、見たいと意識をすると、見たいと意識した場所や物がどこであっても見えるのです。その時に感じるのは、その場所や物の状態は、例えば、二〇センチメートルの距離から見たよりはっきりと、五感全てを用いたように感覚的に自覚できるのです。はっきりしていると言うより、その場所や物に自分自身がなっているような感じと表現しても良いように、理解ができ、そして、感じるので驚いた記憶があります。
様々な場所にも勿論行けるのですが、例えば、時間を超えて様々な時代や、その時代はどうであったかなども判別でき、更に、空間を飛ぼうとすれば飛んで行きながら、やはり判別もでき、考え、そして理解する事もできるのです。その時もやはり、距離などに左右される事もなく感じられ、そして、自分自身が、その場所や物自体になっているかのような自覚でもあるのです。ですから、飛んでいる自分自身の意識も感じられるのです。そして、見ているものは勿論の事、感じられるものもまた自分の一部として見えたり、感じたりすると考えれば良いようなのです。その際、物が全て透けて見える場合や、自分自身の過去世と思えるような、山の中の石の崖の上にて座禅を組み、瞑想をしている状態の年寄りの男性の姿の映像が見えたりもするのです。更には、様々な色に光り輝きながら見える場合などもあり、一概に、これが見えているとか、感じられるとは言えない事も事実なのです。
つまり、この宇宙にあるものすべてが、自分自身と一体で同一のものであり、更には、全てがエネルギーであり、光り輝いているものであると理解しなければならないようであり、今一つ、私自身も理解ができていなかったのです。しかし、神様とは、愛とは、何であるかとの答えが理解できた時初めて、宇宙全体が一体のものであって、そのもの全てが神であり、自然の法則に即した自然なる愛であると気付いたとき、納得でき理解したような気が致します。
時々、私のところに訪れる方々の中にも、幽体離脱を体験した方が少数ではありますがおります。その方々に尋ねてみると、やはり、意識のあり方に左右されるようなのです。例えば、心の中に不満などが存在する時に幽体離脱をした場合には、暗いトンネルを潜り抜け、地獄のような場所の現象を見るようです。それに対して、嬉しい事があった時に幽体離脱をした場合には、天国に行ったような素晴らしい現象を見るようなのです。従って、たとえどのような意識の表れ方であれ、精神状態や肉体に対して影響を与える事と同様に、幽体離脱をした意識に対しても影響を与えていると考えられるのです。この事を考えると、心のあり方や意識のあり方は、形があろうが無かろうが、そして、自分に対してであろうが、他人に対してであろうが、それこそ、善であろうが、悪であろうが、意識的であろうが、無意識的であろうが判別する事など全く無く、様々な現象として、あらゆる意識に対しても作用する事が判明するのです。よって、たとえどのような件であれ、心のあり方や、意識のあり方などをよき方向に導こうとする努力はすべきなのです。
ところで、最近はと言うと、自分自身の身体からは意識が離れたとの感覚は全くなくなっております。例えば、私が寝ようとして布団に横になるか、瞑想などを始めると数分もしない内に、身体自体が消え去ってなくなったように感じ、そして、幽体離脱をした時と同様の現象が起こってくるのです。つまり、幽体離脱をしているとの感覚はないと理解すれば良いようなのです。そうですね、周りにある宇宙全体のものと同化していると考えればよいような気がいたします。すると不思議な現象が起こってくるのです。
【色々な音が聞こえる】
平成五年春頃から、様々な色の強烈な光を見たり感じたりする事が始まって、約半年後頃から始まったと記憶をしております。最初の頃私は、今は虫の季節でもないのに、なぜか虫の鳴く声が聞こえている。しかも、耳より聞こえていると言うより、頭の中が音を感じているようでもあると不思議がっていた事を思い出します。
なぜか、音が聞こえるのです。例えば、フルートのような、笛のような、隙間風のような音や様々な太鼓の音。キーン、ブーン、リーンなどの金属音のような高い音。蜂が飛ぶような音。鳥がさえずるような声。コオロギがなくような声。その外、多種多様の音楽などのような音が聞こえていた時期が約六〜七年とだいぶ長くあったのです。ただし、現在では、多種多様の音が別々になって聞こえてくる事もありますが、全ての音が一緒になっているように、しかも、高い音が普段の生活の中で、いつでも、何をしている場合であっても、眠っている間を除き聞こえてくる事が多くなっております。
その音が聞こえるのは、耳から聞こえるという事ではなく、頭の内部が様々な変化をしていると感じる時に聞こえるものであって、耳鳴りなどとは異なっているものなのです。
その他に、神様からの声なのか、自分自身の自我意識からの声なのかははっきりしていませんが、聞こえてくる事も事実です。この件については、「私のアジナチャクラの覚醒について」のところに記載しましたので是非お役立て下さい。
【神様からの声と思われる声が聞こえ出す】
この現象は、アジナチャクラや、サハスラーラチャクラの活動が活発になりだした頃から聞こえ始まったのですが、詳しくは「私のアジナチャクラの覚醒について」及び、「私のサハスラーラチャクラの覚醒について」のところを参考にして頂ければ幸いです。
【身体が光り出す】
幽体離脱の体験が始まった頃とほぼ同時で、平成五年春頃から様々な色の強烈な光を見る事や感じる事が始まって、約半年後頃から始まったと記憶をしております。
夜、布団に入り一眠りした後のリラックスした時や、瞑想をしている時、または、椅子などに腰掛けてリラックスしていた時などの場合に、目を閉じると、自分自身の体が光り輝くのが見えたり感じたりしていたのです。その光とは、最初の頃は黄色であったり、やや緑色であったり、銀色や金色などの色が付いていたのですが、回を重ねる毎に光が段々と強い光に変化して行ったのです。その光は、やがて、色が付いているとは思えない、そして、言えないようになって行ったのです。ところが、やはり、光り輝いてはいるのですが、その光を例えれば、複数個の真夏の昼の太陽を背に受け、正面には小波のある湖があり、その小波に太陽の光が直接当たり、反射しているようであると理解すれば納得ができると思います。それほどに眩しく強力な光であったのです。この身体が光り輝く事も、やがては鎮まり、現在ではきらきらとは光り輝く事はないのです。ところで、現在の場合には、夜、寝ようとして目を閉じたり瞑想を始めようと目を閉じた場合などには、数分もしないうちに、全てのものが透明に近い状態に透けて見えたり感じたりするのですが、自分自身の身体もまた、透けて見えたり感じたりするのです。その際、ものであっても、自分自身の身体であっても、透明に近い光により、きらきらはしていないが、やはり、輝くのであり本当に理解のできない現象があるのです。その際、夜に電灯を消し真っ暗にしたとしても、やはり、明るくなり光りだすのですから、理解ができないかも知れません。しかし、事実なのです。
【過去の世界と思える現象が見える】
【幽体離脱が始まる】のところでも少し記載しましたが、幽体離脱とまた少し変わっており、何となく意識をする事によって、過去の世界と思える世界に、瞬時に意識そのものが移動するようなのです。その過去の世界であっても、幽体離脱の時と同様で、この時代と意識すれば良く、移動する場合もまた同様であり、様々な場所や物が見え、そして、感じるのです。その時に見えたり感じたりするものは、自分自身が子供の頃には何をして遊んでいたかは勿論、数百年、数千年、数万年以前の事であっても見え、そして、感じるのです。
その見えたり感じたりする内容は、幽体離脱の時と同様であると理解すれば良いようです。ただし、太古の昔の場合には、人間などは存在せず、よく理解できないのですが、海の中を見た場合には、ムカデのようではあるが、著しく大きく長いものであり、羽のようなものが付いていて泳ぐというより飛んでいるように見えたり、魚のようではあるが巨大であり、頭ばかりが大きく目立ちゴツゴツしていて、えらや鱗ばかりが目立つようであったり、イカのようではあるがお化けのように足が長かったりしているのです。その他には、巻き貝の祖先と思えるようではあるが、貝とは言えないようにねじれた形で巨大であったり、また、その貝が泳いでいたりと、何とも理解のできない不思議な泳ぎや行動をしているように見えるのです。しかも、海の中は真にきれいな様々な光が上部より射し、そして、輝きがあり、更には、その光が様々な方向に拡散していて、表現のしようがないほどきれいであったとしておきます。とにかく、様々な光に包まれ、そして、輝いているのですから、書き表す事ができないほどきれいなのです。
陸地を見渡した場合には、シダのようでもあるが、バナナと椰子を掛け合わせたような、植物のようでもある想像を絶するほどの大木が見え、その大木の中を、とんぼと言うより、極端に太ったかげろうのような、何ともグロテスクなものや、ムカデととんぼを掛け合わせたようなもの、更には、現代のとんぼとは、似ても似つかないほど巨大なとんぼのように見えるものまで、大小様々な昆虫と思えるものが無数に飛び交う姿が見えたりするのです。
ところで、自分自身はと言うと、意識はあるが形がないように感じ、そして、自由に飛んで行けて、その際、その大木を避ける事は必要がなく、難なく真っ直ぐに通り抜ける事もでき、更には、その飛び交う昆虫らしきものと、同化したいと思うと難なく同化でき、方々に飛びまわる事もできるのですから、理解が全くできないのです。その際に感じる事は、私の意識は、その昆虫らしき物や、魚と思われるものの意識自体と同じになった意識として感じるのですから、全く理解ができないのです。
また、幽体離脱と同じで、意識だけであっても自由に行動ができ、更には、周りの全ての様子が、全ての感覚である五感によって感じる事もできるのです。それと、その見えたり感じたりするものが、リアルであるばかりではなく、その全てのものに対して同化しようとすればできるようであり、そのもの自体に自分自身がなったようにも感じるのですから、不思議で、現在であっても理解ができていないのです。
【死後の世界や極楽浄土の世界と思える現象が見える】
死後の世界や、極楽浄土と思えるところが見え出す時は、私が寝ようとして布団に横になるか、冥想などをしていて心が鎮まった状態になると、身体自体が消えてなくなったようになり、その後、暫くすると見えてくるのです。
その死後の世界や、極楽浄土と思えるところが実際に見える事は数多くあり、さらに、類似はしているが、その都度、その現象は異なっていると表現しても良いと思います。ある時には、真っ青に空は晴れ渡り、その・か遠くには眩しいほどの様々な光が光り輝き、その手前には、広大に広がっている土地一面に、様々な例えようのないほどの綺麗な花が咲きみだれ、そして、表現の難しいほど爽やかな風が吹き抜け、さらには、様々な蝶のようなものや、鳥などのようなものが、様々な色に光り輝きながら飛び交う姿が見えるのです。また、自分自身の目の前には、幅が百メートルほどもある川が横たわり、川底には、球に近い拳大の石がゴロゴロと転がっており、水はと言うと、少ししか流れておらず、歩いても渡るなら渡れるようにも思えるのです。
そこで、向こう岸があまりにも綺麗で、美しく爽やかな風が吹いてくるので、歩いて行こうとすると、どうしても自分自身の足を動かす事ができず、川を越える事ができません。歩いていく事はできないので、その花畑の方向を見ていると、今度は、大勢の方々が思い思いの格好をして、花畑の中を歩いて光の方向に遠ざかって行くのが見えるのです。自分も遅れまいと、川を渡ろうとするのですが身動きがどうしても取れないのです。そのうち、花畑を歩いていた人々は遠くに行き去り見えなくなり、自分は置いてきぼりになって悲しんでいると、ふと、我に返る事がしばしばあったのです。この際、私自身が置き去りにされては大変と大声で呼び掛けるのですが、こちら側には全く反応せず、整然と並びながら歩いて行き去ってしまったのです。また、信じられない事に、大勢の方々が通ったはずの花畑のような場所は、全く踏みつけた後がなく乱れていなかったのです。
もう一つのこの例の場合もやはり、真っ青に空は晴れ渡り、本当に表現に困るような暖かさと爽やかさのある風が感じられ、更に、広大に広がる様々な形をした岩山が連なり、その岩山は様々な光を放ちながら輝き、私の目の前には、歩いても簡単に越せる水の流れていない谷間が広がり、その岩山には、方々に数々の石碑のような石柱や、大小様々な小石などが様々な色に光り輝きながら見えていたのです。その岩山には、多くの方々が、何やらあちらこちらに石積みの山を造る作業をしているのが見えていたのです。あまりにもその岩山が光り輝き綺麗なので、私も行こうとすると、なぜか全く足を動かす事ができず向こう岸には行けなかったのです。どうしても、私は向こう岸に行きたいので、大声で向こう岸にいる方々に呼び掛けるのですが、これまた、全くこちら側には見向きもせず黙々と作業を続けているのです。ところで、その作業の内容を良く見ていると、死後の世界では、修行のためと他の方々の供養のために、崩れても、崩れても、石積みを繰り返し続けると言われているが、その通りなのだなと感心をして見ていると、そのうち、ふと、我に返り見えなくなったのです。
ところで、この死後の世界と思われる場所を見た場合には、他の場合でも同様なのですが、意識だけで見たはずが、足が動かなかったと感じた事も、何とも理解のできなかった数々の不思議な例の一つとしてあったのです。また、こちら側にいる私に対して全く反応をしていないという事は、私自体が見えていると思っているだけであり、死後の世界とか霊の世界などと言われている世界に、実際には行っていないと理解すべきなのかも知れないのです。そして、その見えたり感じたりするものは実際にはなく、自分自身の脳内にある自我意識の記憶を、見たり感じたりしているのではないのでしょうか。また、その見えたり感じたりする内容は、過去の暮らしの中において、何らかのかたちにより聞いていた内容を、無意識ではあるが記憶として蓄積しており、その無意識である意識が、自我意識が鎮まった事により、普段の意識状態に対して浮かび上がるために、そのように見えたり感じたりするのではないでしょうか。私は、そのように考えているのです。また、遺伝子として、先祖や親が体験した様々なる事柄や体験などが蓄積されているので、無意識の状態になると、その蓄積されていた現象が意識上によみがえり、見えたり感じたりするのかも知れないのです。この件などは、過去に虐待などがあった場合などに、私が治療をする事により、過去の体験がよみがえる現象と同じであるとも言えるのです。
また、この極楽浄土と思われるところが見える体験については、建物や庭などが様々な光に輝きながら見えるのですが、この建物は、現存するとは言えないほど煌びやかであり、例える事はできないほどのものであり、しかも、様々な色にて輝いてはいるのですが、そこに存在するもの全てが、透き通っていると表現をしても良いほどのものであったのです。もし無理をしてその煌びやかさを例えるなら、贅を尽くして建築した和室のようでもあり、まるで、これ以上の贅沢はできないであろうとして、建築をしていると言わなければならないような建物であり、また、庭はと言うと、これまた絶対に人為的には造れないような素晴らしいものであり、その素晴らしい庭にある池や木々が、これまた例える事ができないほどの様々な光を放ちながら光り輝いて見えるのです。この状景に匹敵するものとしてあげるとすれば、金額を度外視して最大限の贅を尽くし、煌びやかに作製された仏壇などがありますが、その仏壇などとは全く比較にならないようであったとしておきます。また、周りはと言うと、これまた、表現ができないほど素晴らしく、様々な光に輝きながら見え、更に、空気の果てまで、これ以上気分のよい温度、そして、環境状態はないと表現しなければならないようであったとしておきます。
そこで、自分自身の意識はというと、まるで透明人間にでもなったように見えて、そして、感じるのですが、床に座っていたり立っていると言うものではなく、宙に浮いていて、自分の意思にて自由に行動もでき、更に、何の障害も無く、自由自在に建物は勿論、池や木々の中を潜り抜ける事も自由であり、そして、その建物や庭の石や木々などとも同化もできるので、自分自身がその建物や、木々になったように見えたり感じたりもするのです。それこそ、全く理解に苦しむ事が頻繁にあったのです。
ところで、ここに書き記されたいずれのものも、様々な色にて輝きながら見えるものは、全て形があるようにも見えるのですが、よくよく見ると、すべてが在るようで無いような、透き通っているような、何とも表現に困るようであったのです。しかし、想像を超えた素晴らしさは感じられ、これこそ、極楽浄土なのかも知れないと思ったできごとであったのです。とにもかくにも、周りに存在するあらゆるもの全てが、例えようもないほど様々な光に輝くと共に、表現の方法がないほど素晴らしく、安堵感と幸福感があると記載しておきます。その時の心の安堵感や安らぎは、どのように表現したらよいのか、表現をしようにも、しようがないと記載する以外はないと述べておきます。それほど素晴らしい体験であるのです。
また、一般には幽霊と称される姿を見ていた時期も、約六か月間ぐらいあったのですが、この幽霊と思われるものが見える場合においても、確かに自分のごく近くに見えているのですが、恐ろしくもなく悪さをする事もなく、こちら側から話し掛けようと何をしようと変化はなく、また更に、肉体があるように見えるのですが、私が幽体離脱をした時の状況と同じで、その幽霊もまたすべての物を難なく通過しているようにも感じるのです。
なお、たとえ、幽霊と称するものが見えたとしても、その幽霊に対して意識を取られ、惑わされてはならないとされているのです。理由は、霊の世界などではなく、神の心の世界を目指して修行を積んでいるのであり、霊が見えるとか、霊の事がわかるなどと言う方は、霊を意識する事により、自分自身の意識が霊の次元と共鳴をしているのです。よって、霊を見たとか、霊が見えるなどと自慢するものではないのです。霊が見えるとは、霊の次元と共鳴している事を物語るものであり、次元の低い位置に自分の意識がある事なのですから注意すべきなのです。また、霊が見える場合には、
貴方の意識が霊の次元にある事であり、心のあり方が、まだまだの状態である事を認識しなければならないような気がしています。
よく亡くなった方を表現する場合には、白の装束であり、頭には白の頭巾を描く事が当然のようになっていますが、そのような格好の姿は一度も見た事はなく、普段の生活にて着ていた服装であった事が最も印象的であったと思います。
【喉の奥や腹の奥から変な声が】
平成五年春頃から様々な色の強烈な光を見る事や、感じる事が始まってから約三年半後頃から始まったと記憶をしております。さらに詳しくは、「私のヴィシュダチャクラの覚醒について」のところで記載していますので是非お役立て下さい。
【身体が勝手に動き出す】
平成五年春頃から様々な色の強烈な光を見たり、感じたりする事が始まって約二年後頃から始まったと記憶をしております。ある夜、一眠りした後にふと気付くと、右手の手首から先が勝手に動き出してきたのです。最初に動きだした時には、ゆっくりと小さく動いていたのですが、時間が経過する毎に大きく、そして、激しく動き出してきたのです。その後、右腕全体が、やはり最初は小さく動いていたのですが、そのうち方向が定まらないように激しく動き出してきたのです。その時、どのようにしたら良いのかわからず途方に暮れていたものです。そのうち、今度は、またも同じく左手が動き出したと思ったら、今度は足も激しく動き出し、それこそ、恐ろしくて、恐ろしくて、途方に暮れていたのです。
そうこうして何日も経たぬ内に、今度は、追い討ちを掛けるように、それこそ毎晩のように、私の意思に全く関係なく、腰を中心として訳もわからないほど、手は勿論、足も首も肩も、それこそ全身すべてが、気が狂ったように激しく動き出してきたのです。その時、最も激しく動き出した時などには、このままでは身体が壊れてしまうと思うほど激しく、そして、勝手に動き出し、しかも方向が定まっていない動きのため、激しく動いた時など、これからどのように動くのか見当が全くつかないので、本当の意味で本当に恐ろしくなって、恐怖心が先に立っていた事を思い出します。
本当に全身がどうにかなってしまうほど激しく動いた時期は、五年間ぐらい続いていたように記憶しております。その身体の動きは、長い時で三時間ぐらい続いていたのです。また、短い時には、二十分〜三十分ぐらいで自然と止まるのですが、動きが止まった後は、何とも言えないほど身体全体がすがすがしく感じていた事も事実なのです。その体の動きは、動きを止めようと意識すると動きを止める事はできるのです。ところが、再び身体がリラックスしてくると、やはり激しく動き出してくるのです。そのうち激しく動き出す事も習慣になり、恐ろしさも消え、やがては、全く驚きもせず動きに任せるようにしていたのです。
現在でも朝方になると、毎日のように身体全体が激しく動き出す事はあります。しかし、以前にあった動きのように激しさはないので現在は安心をしています。また、ムーラダーラチャクラがあり、クンダリニーのエネルギーが収まっているとされる尾てい骨付近や、スワディスターナチヤクラ辺りが、特に集中して活動し動いているような気が致します。ごく最近では、身体が動き出す事は稀にあるだけになり、以前の事を思うとほっとしています。
ところで、後で良く考えたのですが、この身体が激しく動いたのは、外部より入ってきたエネルギーを私自身の身体が消化できず、身体の中にエネルギーが充満しきってしまい、そのエネルギーが急激に自然治癒能力をあげ、私の身体を改善しようとした為ではないかと思っているのです。この件を考えると、勝手に身体が激しく動くのは、今日まで自分としては、歪みもなく正常の身体であると信じていたのではあるが、実は歪んでいて、その歪んでいた部分が急激に改善してきたために、激しく動くものと考えられるのではないのでしょうか。ですから、今後の事ははっきりしているわけでもないのですが、今日までの事を考えると、やがては自然とこの身体が勝手に動くことはなくなると思われます。
【想像を絶する恐怖体験、及び食事が全く取れなくなる】
いずれの場合でも同じなのですが、身体の力が抜け、リラックスなどした場合に体験する様々な現象があったのです。主なものを記載してみると、強力な光を見たり感じたりする。身体はところかまわず勝手に激しく動く。意識もしないのに、勝手に喉の奥から声らしきものなどが出る。瞑想などをしていると、意識上にあるものすべてが一瞬に消える。想像もできないものが出現し、大変なる恐怖感を体験する。さらに、その他多くの様々な現象があったために、食事をしようとしても、食欲がわかないために食事もまともに取れず、更には、慢性的に睡眠不足になっていて、風邪をひいたような倦怠感というか疲労感を覚え、大変悩んでいた時期が、約四か月程度あったと記憶をしております。
ところで、想像を絶する恐怖を覚えるほど、精神状態、及び、肉体的変化が始まったのは、平成九年五月初め頃の朝方、神棚の前に座り一時間ほど呼吸法と瞑想をしたところ、何時間もしないうちに、急激に目の中の白い部分がウサギの目のように真っ赤になり、極端に視力が落ち、更に、瞼が膨れて完全に塞がり、針などにて連続して刺しているような激痛に襲われ、さらには、涙が止まる事無く連続して出てきたのです。その後、暫くすると今度は、顔が見る影もないほど極端に腫れあがり、そして、身体全体がむくみ、さらには、少しであっても頭を動かす事すらできないように重くなり、そして、痛みが極端なほど増してきたのです。さらに、身体全体が動かせないように苦しくなる事は勿論、益々痛みが増し、辛くなり、ほとんど動く事もままならなくなり、さらに悪い事には、頭全体、特に額の辺りが非常に痛くなり、額が割れるのではと思い、恐怖心が増すばかりであったと記憶をしております。
ところで、その恐怖体験のあった期間は勿論、その後も、七日間ほど食事は全く取れず、途方に暮れていた事を思い出します。なぜに、食事を取れなかったのかは、理由は定かではないが、食品や空気は勿論、自分の周りに存在するあらゆる物の臭いに対して極端なほど敏感になり、自分自身の口の中に食品や飲み物を入れるだけでも、恐怖を感じるほどになっていた記憶があります。また、この極端な恐怖体験の期間は勿論、例のごとく、あいも変わらずその後も、目を閉じれば恐ろしいほど強い、そして、まばゆいばかりの様々な光を毎晩のように見続け、そして、感じていたのです。身体からは、幽体離脱なのかどうかよくわかりませんが、意識が外れ、遠くは地球のかなたと言うか宇宙の果てまで見る始末で、更に、光り輝く海の中や、光り輝く建築物などを、自分自身が飛びながら見ているように感じたり、見た事もない色々な建築物や山、川、過去、死後の世界と思われる現象や、自分自身などが光り輝いているのを見たり、自分の身体の中で電気でも生産されて流れているように、ビリビリとしびれたり、常識では全く理解できない事が数限りなく頻繁に起こっていたのです。
更には、金粉や小判、一万円札などが降ってきて、例えようのないほど喜んでいると、その金粉や、小判などが急激に大量に降りだし、自分自身が埋まり、息もできずに死ぬ様子の恐怖体験を見たり感じたりと、不思議な事ばかりが連続してあったのです。その他、様々な恐怖体験はあったのですが、その中で最大の恐怖体験は、私の腕と同程度の太さで、巨大な吸血ヒルと思われるものが、私の身体を取り巻き、口の部分は腕に吸い付き、いくら振り切ろうとしても振り切る事ができず、想像を絶するほどの恐怖を味わった事も記憶しております。
この小判などに埋まる体験は、私は非常に貧しい家に生まれ、お金がない生活を余儀なくされ、義務教育のみであったのです。そこで努力をして、一級建築士や一級施工管理技師の資格を取り、仕事をしていたわけですが、狭い町であるため私の事は皆が知っており、高校にも行かない者を認めたくないとの意識があからさまだったのです。よって、私は、お金さえあれば、との意識が強かったものと考えられるのです。従って、私自身の自我意識が無意識的にではあるが、金銭にあったために、その自我意識から解放されるためには、金銭などから意識をはずし、心を鎮めるようにと無意識的ではあるが、私自身のもう一方の自我の意識が戒めているからこそ、体験したものと私はそのように理解をし、考えているのです。また、吸血ヒルの場合なども、自分自身では心は開いていると思っていても、私の心の中の自我意識は、これもまた無意識的ではあるものの、私が自分自身の心を開く事をためらっていたと認識し、恐怖体験を通し、心の中にある自我意識を解放しなければならない事を知らせたと、理解しなければならないようなのです。
それと、最も恐ろしかったのは、強烈な光を見た場合には肉体的には勿論、精神的な事柄などに対しても強烈な衝撃などがあり、さらに、身体がところかまわず勝手に激しく動いていたのです。その時なぜか、透明に近い白い強力な光を見た場合には、最初に下痢があり、暫くすると、今度は、下血が非常に激しく何度も繰り返しながらあり、驚いていた記憶があります。その下血があった場合などには、あまりに大量であるため、便器が真っ赤になると言っても言い過ぎではないほど大量の下血であったので、今現在になって思い出しても背筋が凍るように鮮明に思い出します。また、数十回に及ぶほどあったのですが、便が異常なほどの臭いがしていて、更に、真っ黒な便であった事も不思議な事の一つなのです。この場合などは、肉体の内部に滞って汚れた血液が排泄される現象や、宿便が排泄される場合の好転反応現象と思われる現象(偏差現象とも言われる)の一種なのかも知れないのです。また、強力な光のエネルギーが入ってきたと思える時や、強力な光を見た場合など、更には、強力な光に自分自身が溶け込んで和合し、一体となったように見えたり感じたりした場合などには、身体が不思議なほど熱くなる現象や、全身が激しく動き出す事、表現の方法がないほどの安堵感と、幸せ感がある事などについては同じくあるようなのです。
激しい下血などをした時、病院に行って、検査をして頂かなければとの迷いがあったのですが、とても信じてもらえないだろうと思い、病院に行く事は一度もなかったのです。しかし、このような不思議な体験は、普通の生活をしていく上では全く体験する事柄ではないが、チャクラを覚醒させようとしたり、クンダリニーを上昇させようと修行などをした場合には、想像を・かに超える驚くべき体験も、実際にはある事も知っておくべきであると思うのです。
この様々な恐怖体験は、チャクラの覚醒やクンダリニーの上昇が始まると、その人の心の中にある自我意識の程度により、体験する事は異なるが、様々な事を体験するものと思われるので、注意が必要なのかも知れないのです。ですから、自然の法則に即した自然なる愛とか、心のあり方とか、意識のあり方などが重要であるなどと言われているのかも知れないのです。よって、もし皆さんの常日頃の自我意識自体に対して、様々な恐怖などによるストレスなどが存在する場合などには、当然として、その自我意識に関するストレスの内容に応じた現象が、恐怖となって現れてくると認識しなければならないのかも知れないのです。
その他、あいも変わらず、身体がこのままでは壊れてしまうのではと思うほど激しく動く事があり、さらには、喉の奥よりの変な声も益々激しく出てきていたのです。これは本当に誰に話をしても「お前の頭はおかしくなった」としか言われないような事が続き、夜になっても全く眠る事ができず、本当にこのままおかしくなるのではないかと、大変不安でならなかった事を記憶しております。
前記したような、様々な極端なる恐怖体験が七日間ほど続き、その夜、裸であっても、身体全体が焼けるように熱くなり、福島県の五月は涼しいはずなのに、布団もかけず、下着以外は着ていないにも拘わらず、下着を何回も取り替えなければならないほどの大量の汗をかき苦しんでいたのです。その身体全体が異常に熱くなった時に、このままでは死んでしまうのではないかと不安になり、どうすれば良いかを考え、出した答えは、たとえ神様がいても、いなくても、真剣になり、神様が私を必ず守ってくれると信じたなら、この苦しさから開放されるのではないかと思い、堅く強く信じて実行したのです。
その時私は、まだ死ぬ事はできない。なぜなら、ここまで修行が進んだが、本当の意味で皆の為に能力を使って助けてはいないし、まだ若すぎる。もし、神様が本当にいるとすれば、必ず私の望みを聞いてくれると、真剣に神様はいると信じたのです。その直後、マニプラチャクラが活動を始め、クンダリニーの上昇が始まったのです。
ところで、自分自身どころか地球までもが、一瞬にしてこの世から消えるように感じる場合もあるのです。そう、物質の世界である、三次元の世界のすべてと言っても良いかも知れませんが、一瞬にしてなくなる感じがするのです。そうですね、簡単に言ってしまえば、死、または、無とか空そのものです。この現象は、物質的世界から精神的世界に意識が移行する為に体験すると言われていますが、要するに、物質的世界から解放され、現実の世界を捨てて精神的世界の心に変化するようなのです。つまり、生まれ変わると理解すれば、納得や、理解ができると思うのです。よって、想像を絶する恐怖が生じると考えられる事から、更なる注意が必要であるのです。しかも、眠っている間に見る夢とは異なり、身体の力が抜け、リラックスした時に体験するものであって、意識状態ははっきりしているのでなおさら恐怖があるのです。
チャクラの覚醒時やクンダリニーの上昇時、なぜ、心身的苦痛も体験するか
チャクラの覚醒や、クンダリニーの上昇が発現する場合には、大変素晴らしい事も体験としてはあるのですが、その素晴らしい体験に反比例するように、想像を絶する苦しみや、恐怖体験もある事を述べておかなければなりません。そこで、チャクラが覚醒する時や、クンダリニーが上昇する時に、なぜ様々な恐怖体験に遭遇し、肉体的苦痛は勿論、精神的苦痛までも体験するのかを考えてみましょう。私は、そのような様々な恐怖体験をする理由としては、次のように考え、そして、理解をしているのです。
まず、普通の生活状態では、ほとんどの方が物質的なものを信じ、さらに、肉体的次元(エーテルエネルギー)、つまり、形のあるものや、目に見えるものを信じているのが一般的であると言えるのです。そこで、チャクラが覚醒したとか、クンダリニーが上昇したとかは、如何なる事を述べているのかを、もう一度検討しなければならないのです。その答えは、肉体的次元の考え方を鎮める事ができた。自我意識を鎮める事ができた。よって、チャクラやクンダリニーの活動が活発になり、チャクラの覚醒や、クンダリニーの上昇が始まったと解釈されるのです。クンダリニーが上昇する場合において、十分なる心のあり方や、精神状態のあり方についての修行の後に上昇した場合には、身体や精神的状態に対する悪影響はさほど出ないとされているのです。しかし、クンダリニーの上昇や、チャクラの覚醒が始まりかけた多くの方々に聴き当たったところ、ほとんどの場合、クンダリニーの上昇の危険性を安易に理解しているため、あまりにも急ぐ、つまり、じっくりと修行している場合が少なく、私と同じように、大変な辛さと恐怖感を味わっている場合が多くあり、すべての方が恐怖体験をすると言っても言い過ぎではないのです。
ところで、世界的に有名である仏陀やキリストであってさえも、断食修行などをした時などに、想像を絶するほどの様々な恐怖体験をしているのです。その恐怖体験については、現在までも語り継がれるほどのものであった事でも理解ができると思います。従って、危険な事や恐怖、辛い事などを避けるためには、十分な時間と準備、そして、あわてない事が要求されるのです。
そこで、私の体験として、クンダリニーが上昇し、チャクラが覚醒する時に実際に現象として起こってくる様々な恐怖や、苦痛などを詳細に書き記したいと思います。ただし、この体験は、私だけが経験したものであり、すべての方が、必ずしも同じ現象を体験するものとは言えないかも知れません。しかし、もし皆さんが、チャクラの覚醒やクンダリニーの上昇が発現してきた場合には、私と同じ事があるのかも知れないのです。また、全く異なった覚醒や上昇の仕方があるとも言えるのです。いずれにせよ、私の知る限りでは、私と同一の事とは言えないが、大変よく似ている現象を体験する事が多いので、皆様にも是非参考にして頂ければ幸いです。
@大変恐ろしいほど強力な光が見えたり感じたりして、夜など眠れない事がある。
A極端に匂いに敏感になり、まともな食事が取れなくなる事がある。
B身体の中が燃えたようになり、また、異常なほど体温が高くなる。更に、大量の汗をかく事がある。
C頭は勿論、身体全体がむくみ、身体全体が痛み出したり、緊張したりして動かすのにも不自由になる事がある。
D目が真っ赤になり、瞼が腫れ、そして、垂れ下がり、更には、急激に、そして、極端に視力が落ちてきて何も見えなくなる事がある。
E身体の力が抜け、リラックスした状態になってくると、身体全体がところかまわず勝手に動き出す事がある。
F身体の力が抜け、リラックスした状態になってくると、訳のわからない言葉が意識に関係のない状態にて、のどの奥や腹の奥から勝手に出てくる事がある。
G身体の力が抜け、リラックスした状態になってくると、色々様々な音が聞こえる事がある。
H身体の力が抜け、リラックスした状態になってくると、神様がどなったような大きく響くような、こだまするような声が聞こえる事がある。
I身体の力が抜け、リラックスした状態になってくると、霊と思えるものが見えたり、更には、現象などが感じられるようになる。
J強い光を見るたびに、下痢や、激しい下血などをする事がある。また、異常な臭いのする黒い便などが出る事がある。
K身体の力が抜け、リラックスした状態になってくると、意識というか魂というかが身体から離れる事がある。
L身体にやたらと倦怠感が感じられる事がある。
Mチャクラのある部分が大きく開き、黒いものが出て行ったり、強力な光が入ってきたりする事がある。
N身体の力が抜け、リラックスした状態になってくると、自分自身どころか地球までもが、一瞬にしてこの世から消え去るように感じ、更に、大変な恐怖感を味わう事がある。
O腰骨や背骨、頚椎などが力を加えていないにも拘わらず、鈍い音をたてて一瞬のうちに動く、その後、方々の関節はもとより、筋肉痛などが激しく起こり、悲鳴をあげるほどの激痛などがある。
P自分自身の自我意識と思われるものから開放されるため恐怖を味わうと思われるが、私の場合に最も恐ろしかった体験は、金粉が空から降ってくるのが見えたり、小判が降ってくるのが見えたり、一万円札が降ってくるのが見えたりしていたのです。ところが突然、その空から降っていた金粉などが例えようもなく多く降りだしてきて、私自身の身体が埋まって押しつぶされ、そして、息ができなくなり死んでしまうような恐ろしい体験を何度もしたのです。
Q夜など身体の力が抜け、リラックスしてくると、想像もできないほど巨大な吸血ヒルと思えるものが、頻繁に出現し、私自身の決意を試すように襲ってくるのです。
まだまだ多くあったのですが十八項目ほどあげてみました。
チャクラの覚醒やクンダリニーの上昇についての書籍は、多くの方々によって出版されています。しかし、私が体験した恐怖や、苦しみを記載したものと同様の体験については、無に等しいと言っても言い過ぎではないようなのです。
自我意識とは次のように述べられている
自我意識とは、思い、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、苦しみ、恐怖、我欲、嫉妬、恨みなど(一般的には、喜怒哀楽などと言われる)。特に、ほとんどの場合、欲が最も問題とされているのです。ただし、欲が全くなくなった場合には、自分自身で、自分の命を平気で絶つ事だってあります。欲があるからこそ恐怖があり、怒る事があり、恨む事もあり、嫉妬する事もあり、更には、自分自身さえ信用ができなくなり、やがては、過剰なストレスとなって、自我意識のエネルギーであるアストラルエネルギーが、肉体のエネルギーであるエーテルエネルギーに影響を与え、身体にバランスの取れない異常事態が生じ、やがては、病気の症状となって現れてくるのです。
従って、呼吸法や瞑想などの修行を行い、チャクラの覚醒やクンダリニーの上昇を試みる事は、自我意識[喜怒哀楽、心や感情、意識や思いなど]をコントロールして、精神世界的な思考や肉体に変えなければ達成できないのです。つまり、物理的世界(エーテルエネルギー)を鎮めて、精神的世界(アストラルエネルギー)を優位にする事ができなければ、覚醒する事などは難しいと言わなければならないのです。
さらに、なぜ、想像を絶する恐怖を体験するのかは、例えば、今日まで堅く信じて疑う事などなく慣れ親しんできた物質の世界から、精神世界が優先する世界に心が変化するのには、物質世界の事柄を全て捨てないまでも、意識の上から消し去ろうと努力をしたり、物質の世界の意識を鎮めたりしなければならないと推測されるのです。ところが、物質の世界の意識を鎮めればよい事を頭の中では理解しているつもりであっても、自分自身の身体は勿論、精神的な部分も劇的な変化をするため、意識的なものとしては認めても、物質世界の事柄を鎮めきれないため、肉体的次元としては認めがたく、そして、怖く感じ、更に、急激な変化を、無意識的ではあるが恐れている事になると考えられます。よって、恐怖体験として、感情上や意識上に浮かび上がってくるものと解釈できるのです。
ところで、自分自身の思考の持ち方でエネルギーの質が変わるとすれば、なぜ、強力な光を見るのか、光もエネルギーそのものであり、また、音が聞こえてくるのか、音もまたエネルギーそのものなのです。その際、自分自身の意識の中や心の中に想像をすれば、如何なるものも自由に想像をし、現象をも造り出す事もできるものなのです。勿論、様々なものに恐れている場合には、その様々の想像をしたものが現実として、意識上に想像した通りの現象となって現れてくると思われるのです。よって、神様を想像すれば神様が出現し、お化けを想像すればお化けが出現するのです。恐怖を想像すれば恐怖が現れてくるのです。また、病気や様々な事件などの場合も同様と思われるのです。再確認をしなければならないのは、たとえ、肉体的思考であっても、精神的思考であっても、種類は異なるが、エネルギーには変わりはないものなのです。もっと、エネルギーを広く捉えれば、目に見えるものは勿論、目に見えないもの、更には、宇宙そのものを初めとし、心の中に描いたもの、想像したものまですべてがエネルギーそのものなのです。よって、思考の持ち方には勿論、身体にも力を入れず、リラックスをしながら良き事を心に刻み、そして、想像をしながら瞑想などをする事により、様々な良きエネルギーと共感し、物質などに対する執着心を鎮めてこそ、チャクラの覚醒やクンダリニーの上昇は達成できるものであり、更に、良き判断ができるようになると私はいつも思っているのです。
なぜに光が見えたり、音が聞こえたり、その他の現象が見えたり感じたりするのかは、心が鎮まる事により、今までに感じる事のできなかった様々なエネルギーと共鳴するために、見えたり感じたりするものと考えられるのです。更には、記憶として先祖から遺伝子と一緒に引き継がれた内容や、自分自身の脳内に記憶された無意識の記憶、その状態が意識上に感じ、そして、よみがえってくるのではないのでしょうか、私はそのように理解をし、考えているのです。
なお、最近では、腰骨や背骨、頚椎などが力を加えていないにも拘わらず、一瞬に鈍い音をたてて動き、その後、方々の関節はもとより、筋肉痛などが激しく起こり、悲鳴をあげるほどの激痛があったのです。この件や、勝手に身体が激しく動くのは、今日まで自分としては歪みもなく、正常の身体であると信じていたのではあるが、実は歪んでいて、その歪んでいた部分が急激に改善してきた為に激痛となって感じたり、激しく動いたものと考えられるのです。この事を考えると、私が癒しや治療を実行した場合に起こる好転反応らしき現象も、納得ができると思うのです。ただし、現在では、激痛を感じるほどの事はなくなっているのです。その様々な体験がある度に、何度も書きますが、本当にこれからどうなるかと不安でたまらなかった事が思い出されます。また、一般に言われている死を恐れているうちは、うまく修行はできませんし、私の体験した事があまりよく理解できないような気がしています。
【神様は絶対にいると真剣に信じる・そしてクンダリニーが上昇】
この文面を理解するに当たっては、最初に、私の「マニプラチャクラの覚醒について」を読み、次に、ここに記載している事を読み、その次に、「私のサハスラーラチャクラの覚醒について」を読んで、クンダリニーの上昇とは、どのようなものなのかを理解して頂けたら幸いです。
ところで、身体全体が焼けるように熱くなり、大量の汗をかき、そして、苦しくなって悩んでいたのですが、その時、神様を真剣に信じて頼む以外はないと思い、私は神様の力により守られているので「大丈夫」と、自分に言い聞かせ本当に強く真剣に信じていたのです。そうこうしているうちにも、身体中が辛く悩んでいたのですが、その辛さが最高潮に達した時、マニプラチャクラの活動が活発になりだし、マニプラチャクラの覚醒が本格的に始まったのです。そのマニプラチャクラの覚醒が始まった部分が落ち着いた直後、マニプラチャクラの覚醒が始まった時に真っ赤な炎が見えた辺りの下腹部の中心部あたりから、体の中心を通って、様々な色をした炎の筒というか、柱というかが炎を噴出しながら、そして、時間を掛けながら最初上方に向かってゆっくりと伸びて行き、最上部のチャクラ、サハスラーラを突き抜けて行ったのです。私としては、この現象は、クンダリニーの上昇に間違いがないと確信をしたので、いっその事下方にも突き抜けて伸びていってくれないかなと意識しながら願っていると、今度は、下の方向にもゆっくりと伸びて行き、最下部のチャクラ、ムーラダーラを突き抜けたのです。そうですね、マニプラチャクラの覚醒が始まってから、この現象が終了するまでの時間は、時間にして約五時間程度の体験であったと記憶をしております。
その直後、クンダリニーの上昇を、私も体験したと興奮していたのですが、そのうち、意識を失ったようになり、ふと気が付くと、私は地球の・か遠くの宇宙の空間に横になり浮いていた状態に見え、そして、感じたのです。さらに不思議な事には、地球は・か下側に見えたり感じたりしていたのです。しかも、サッカーボール程度の大きさであったために、大変な驚きであり、不思議な出来事だったのです。その時の地球の輝きは、青く透き通った色にて輝いていて、これまた、表現が難しいほどきれいであったとしておきます。他の無数に存在する星の場合も様々な大きさではありますが、やはり、透き通ったような様々な色にて輝いていたのです。全く不思議で理解ができないのではありますが、私はそのように感じたのです。
その時、自分の身体に対する意識は、地球がサッカーボール程度の大きさに見えて感じているはずなのに、地球の数百倍もあるように大きく見えたり感じたりしていたのです。また、その炎のような筒の柱が、私の身体に比較して、絶対にこんな事があるはずがないというように非常に太く、上下方向に何万キロメートルもあるかのように途方もなく長く伸びていたのです。「非常に太く」とは、自分自身の身体もとてつもなく大きく感じるのですが、その身体と比較しても絶対にあるはずがないのですが、身体の意識より太く見え、そして、感じていたのです。
その現象の直後、また、マニプラチャクラの時と同じように、身体全体が青い光を放ちながら、燃えたように見えたり感じたりしたのです。その現象が、宇宙空間に浮いている状態と、地上にいる自分が一緒に見えたり感じたりもするのですから、理解をするのにも無理があるのかも知れないのです。しかし、私自身は、事実そのように感じたのですから不思議なのです。その現象後、表現の方法がないほどにほっとしてきて、安堵感が生じ、嬉しくて、嬉しくて、気が抜けたようになり、更には、意識が飛んだようになり、その後、ふと気が付くと、今度は、サハスラーラチャクラの活動が活発になり始まり、サハスラーラチャクラの覚醒が始まったのです。
ところで、クンダリニーが上昇する時には、例えようが無いほど身体内部に抵抗が生じるとされている事が多いようなのです。そこで、私の場合には、身体に抵抗があったかについて考えてみるとなかったように思うのです。なぜなかったのかは、はっきりしているわけではありませんが、私の場合には、以前より睡眠を取ろうとして寝た場合や、瞑想を始めた場合には、数分もしないうちに肉体が透き通ってきて、意識の中から消えたようになる事が当然のようになっていたのです。よって、普通の場合には、肉体に意識があるため抵抗があるが、私の場合には、抵抗が全く無かったのではないかと理解をしているのです。
ところで、その、クンダリニーの上昇時に見えたり感じたりした、炎の柱と言うか筒と言うかの太さは、絶対に考えられないのではありますが、身体の中心を通ったと考えられ、身体の太さよりも太いと感じていたのですから、不思議であり理解に苦しむ事柄と表現をするべきなのかも知れません。また、この現象は、マニプラチャクラの覚醒が始まった時に体験した現象の時も同様に感じていたのです。それほどクンダリニーの上昇とは、劇的な事柄であるため、大変な恐怖心もあり、そして、全く理解のできない事柄でもあったのです。しかし、想像もできないほど素晴らしいと感じる事もまた事実なのです。
【神様に直接会って和合したような感覚になる】
この様々な体験は、無意識の世界と一般に言われていますが、頻繁に起こるようになりました。特に、自分自身の過去を見たり、人類が誕生する以前のような様子が見えたり、自分の行きたいところに行けるようになったりなどがあったのです。また、寝ている感覚もありますが、自分の身体から離れているような自分をも見たり、感じたりもしていたのです。さらには、なぜなのかはっきりしないのですが、付近のでき事が理解できたり、身体から離れて地球の・か遠くの場所に居るように思えたり、金粉が降ってくるのが見えたり、感じたりもしていたのです。また更に、金や銀に輝く建築物や庭や池を見たり、更には、光り輝く光の世界(仏教の教えではマンダラの世界などと表現されている)と言うに相応しい世界を見たり、生物が海から陸に上がった時代と思えるような状態を見たり、生物が海の中で誕生した時代と思えるような状態を見たり感じたりしていたのです。とにもかくにも、理解もできない、わけもわからないような事が頻繁に起こっていたのです。
サハスラーラチャクラの活動が活発になり、覚醒が始まって暫くたった夜に、一眠りして、あれ、今日の様子はいつもと感覚が違うなと思っていると、自分自身の身体から離脱した意識が、あたかも、普段の瞑想をしているように座禅を組みながら、空中をゆっくりと上昇して行く姿が見えたのです。これは、何であろうかとビックリしながら観察をしていると、やがて、様々の色にて光り輝いていて空の上に浮かぶ雲海のようになったところを突き抜け、その雲海のように見えるところにゆっくりと着地をしたのです。その時、不思議に思ったのは、なぜに、雲の上のようなのに自分の重みで落ちてこないのか、またなぜ、このようなところがあるように見えているのかなど、不思議で理解ができなかったのです。
ところが、もっと不思議な事は、・か遠くには、多くの方々が神様といっているのはこれだなと思えるような、本当に素晴らしく、まばゆいばかりの色とりどりの光を強烈にこちら側に向かって放っている、光り輝く塊の中心部が見えたのです。暫くすると今度は、自分の意識に全く関係がなく、座禅を組んだまま、その光の発生源に吸い込まれていくのです。その光の発生源にごく近くなった時、吸い込まれるスピードが極端に遅くなったのです。そこで、よく観察すると、五段ぐらいの階段があり、その天辺部分には光りの発生源があるように見え、そして、感じるのです。しかし、そこには、よく言われる神様らしき姿は全く見えないし、感じられなかったのです。そこでもう一度よく見ると、極端に大きな人型のようなものが、あぐらをかいているようには見えるのです。その人型のように見えたものが、光を放っていたと理解する以外はなかったのです。その後、また暫くすると今度は、私の意識が座禅を組みながら、その階段を滑るようにゆっくりとしたスピードにて昇り、その光の発生源に溶け込んだのです。その光の発生源に溶け込んだ時、私は、神様と一体と化し、和合したように感じ、安堵感と満足感で興奮をしていた事を思い出します。この場合に体験した安堵感と満足感は、普通では全く体験が無いため、表現ができないほどであったとしておきます。それほどすごい事であり、体験した方でなければ味わえないような気がいたします。また、本当にその光の塊の中に私自身がいるかのような感覚になったり、そして、見えたりと不思議な現象ばかりがあったのです。その後も、同程度の光に溶け込む事は何度かあったのですが、座禅を組んだままに溶け込んだとの意識はなく、意識のみが一気に溶け込んでいるのです。私の治療や癒しを受けると、表現のできない安堵感や満足感を感じますが、直接体験した方のみが味わえるわけであって、それと同様で、実際に体験した方でなければ、この安堵感や満足感は、説明を受けてもわからないのかも知れないような気がいたします。
【すべてが神様からの贈り物と自覚・嬉しくて涙が】
神様らしき光の発生源に溶け込んで、神様と一体と化し、和合したように感じ、安堵感と満足感で興奮していた直後、今度は、ゴミを初めとし、形あるもの、形がなくても感じるものなど、幽体離脱をした時に見たものや過去に見たものは勿論、現在、私の周囲に存在するすべての物が重なり合いながら、まばゆいほどの金や銀に光り輝きながら見えたり、その他の様々な色に光り輝きながら見えたり感じたりしてきたのです。すると不思議な事に、私の周りにいる方々は勿論、形あるもの、そして目に見えないものまですべてが、神様からの贈り物という感覚や意識状態になり、興奮すると共に落ち着く事が中々できませんでした。それから、どのような表現をしても、言い尽くせないほどの大変幸せな気分になると共に、本当の意味での安堵感があり、今日まで悩み続けていた様々な事柄から、本当の意味でのすべてが開放されたように感じたのです。
そして、その後、死ぬ事を初めとし、お金に対する執着や、様々な物に対する執着などが極端に薄れてきたのです。そして、あらゆる事柄に対しても恐れる事が極端に減ってきたのです。また、あらゆる事柄に対しても冷静に行動ができ、更に、認めて許す事もできるようになり、今日までの私とは、全く異なった意識状態になった事が不思議でならないのです。しかも、今現在であっても続いている事自体不思議でならないし、理解のできていない事柄なのです。ところで、この意識状態の変化の件は、現実であり事実あるのですから、瞑想修行や呼吸法などは、精神状態の安定や意識状態の安定の為には、はかり知る事のできないほど重要なものと考えられるのです。
更にその後暫く続いていたのですが、嬉しくて、嬉しくて、何もしていないはずなのに、自然に涙が出てきて泣けてくる事もしばしばあるのには大変驚き、そして、感激した事が思い出されます。その時なぜか、涙を流しながら嬉しい感激をする回数を重ねるごとに、心の中に存在していた過去の悩みは勿論、現在存在する悩みなどが極端に少なくなっていくのです。その時、不思議なほどの嬉しさと安堵感があった事を思い出します。なお、現在であっても、その当時の事を思い浮かべると心の奥底から感激し、当時と同じような体験をするのですから不思議なのです。
ところで、私のところを訪れ、治療や癒しを受けた方の中にも、自然に涙が出てきて泣き出す方がいる事は記載した。その泣き出したほとんどの方々が、極端な改善が見られる事も事実としてあるのです。この事を考えると、涙を流しながら泣く事は、最も簡単な心の解放であり、そして、重要な事なのかも知れないのです。従って、自然に涙が出てきて泣く事のできる現象は、ストレスの解放方法として、今後、最も注目すべき課題になると考えられるのです。また、現実問題として、私が皆様に対して、治療や癒しを行った場合には、私が、神様と一体と化し、和合したように感じて、安堵感と満足感が得られたときと同様と考えられるのかも知れないのです。この涙が出てくる現象については、素直に涙が出てくる事は最も重要であるとして【天啓気療を実施しても改善しにくい方】のところで記載しているので、是非参考にして頂きたいのです。
【神様とは・愛とは・宇宙とは・自然とは】
この宇宙に存在するものすべてが、私自身と一体で同一のものであり、神様であり、愛であり、宇宙であり、自然であると気付いた時、なぜか納得できたような気がいたします。なぜそれに気付いたかは、私自体が神様らしき光の発生源に溶け込み、神様と一体と化し、和合したように感じ、安堵感と満足感に浸っていたところ、あれ、何か不思議な感じがするし、変であると気付いたのです。その時、私の脳裏に、自然に存在するすべてのものが愛そのものであり、神様そのものであり、そして、宇宙そのものであると、意識しようとした訳でもないが、意識上に湧きあがり浮かんできたのです。つまり、宇宙に存在するものは、すべてが一つであり、同一のものであると、なぜか意識として湧きあがってきたのです。この件は、現実ではあるのですが、当時の記憶を最大限絞り出したとしても、不思議な事であったとしか表現はできない現象であったのです。また、良く考えると判明するのですが、私が体験したすべての事柄も、自然であり、愛であり、神様であり、宇宙そのものも、すべてが同一のものであり一体と考えられるのです。これこそが愛の本質であり、神様の本質と考えられるものなのです。ですから、自然の法則に即した自然なる愛も、神様も同一のものと考えられるのです。
この事を考えると、自然の法則に即した自然なる愛とは、即ち、自分に対して行う事も、他人に対して行う事も、別段の区別はなくなり、実行した事すべてが、そして、思った事すべてが、自分に対して行った事になると考えられるのです。つまり、皆さんに対してとか、神様に対してとか、愛を込めてとか、宇宙に対してとか、自然に対してとかの区別は、全くない事になると考えられるのです。要するに、自然の法則に即した自然なる愛が大事であると述べているのですが、愛とは、男女間の愛や、親子愛だけが愛であると間違って解釈している事が一般的のようであるが、しかし、本来の愛とは、兄弟愛、人類愛、近所愛、民族愛などすべてであり、そして、すべての事柄に対する愛も重要であるのです。従って、どのような事を実行したとしても、すべてが一体であって区別がない事になるのです。この事を理解しなければ、私は愛の事もわかり、愛があるなどとの発言はできない事になるのです。ですから、戦争などに、神様が守るとか、愛のためになどの言葉はないと自覚しなければならないと思います。争いは当然にして不自然なのですから、考えるべき事柄なのです。
ところで、仏陀(お釈迦様)は、自分自身が難行苦行を実施し、悟りを開いた後、人間の生きる道は、難行苦行を実施する必要は全くなく『自然のあるがままである事が大事』と、説いたと言われています。この事を考えれば、私の述べている事と同様の事を述べているのかも知れないような気が致します。
前記した部分の内容を指し示して、一般には、悟りを開いたと言われているのかも知れないような気がしているのです。そのように確信しても良いほど、感激した体験であった事も事実なのです。
【自律訓練法について】
病気を改善させるためには、最も手軽な方法として身体の力を抜く、つまり、リラックスする方法が最も優れているとされているのです。その方法として自律訓練法があるのです。知識がなくても、誰であっても、簡単にできる自律訓練法について記載しますので是非お役立て下さい。
また、瞑想の準備段階としても有効とされています。ただし、身体の力が抜け、リラックスしてくると緊張がほぐれ、倦怠感と同時に意識状態の自我意識が鎮まり、そして、心も鎮まり、更には、眠気も襲ってくるのです。従って、布団やベッドの上などにての訓練はさけ、畳の上などにて実施する事をお薦め致します。その際実施する部屋の環境は、心が安定しやすい事が条件となりますので、少し暗くできる静かな部屋である事が望ましいようです。
自律訓練を行うに際しての姿勢について
枕は、自分に合ったものを使用します。
@あお向けになり寝る。
A足先は、肩幅ぐらい開きまっすぐ伸ばしできるだけ力を抜く。
B腕は手首辺りで、握りこぶし一つ分ぐらい身体から離し、手のひらは内側から上側向き、指は少し内側に曲げ、力はできるだけ抜く。
実際に自分自身にて誘導をする誘導方法について
誘導に際しては、目を閉じて意識のみにて行えばより効果が上がるようです。
@右腕全体に何気なくさりげなく意識を集中していると、腕の力が抜けリラックスして、段々、段々重くなる。段々、段々重くなる。力が抜けて重くなる。
A左腕全体に何気なくさりげなく意識を集中していると、腕の力が抜けリラックスして、段々、段々重くなる。段々、段々重くなる。力が抜けて重くなる。
B右足全体に何気なくさりげなく意識を集中していると、足の力が抜けリラックスして、段々、段々重くなる。段々、段々重くなる。力が抜けて重くなる。
C左足全体に何気なくさりげなく意識を集中していると、足の力が抜けリラックスして、段々、段々重くなる。段々、段々重くなる。力が抜けて重くなる。
D両足裏に何気なくさりげなく意識を集中していると、段々、段々、力が抜けリラックスしてきます。次に、足裏から、足首、ふくらはぎ、ひざ、太股、腰と何気なくさりげなく意識をすると、段々、段々、力が抜けてリラックスしてきます。更に、おなか、胸、首、額、頭と何気なくさりげなく意識をすると、段々、段々、力が抜けリラックスしてきます。そしてやがては、段々、段々、重くなってきます。重くなってくる。重い。重い。重い。
E右、手のひらにさりげなく意識を集中していると、ムズムズ、ピリピリするようになってきます。更に、意識を集中していると、暖かくなってくるのがわかります。暖かい。暖かい。暖かい。
F左、手のひらにさりげなく意識を集中していると、ムズムズ、ピリピリするようになってきます。更に、意識を集中していると、暖かくなってくるのがわかります。暖かい。暖かい。暖かい。
G両足裏にさりげなく意識を集中していると、足裏から、足首にかけて段々、段々と、ムズムズ、ピリピリするようになり、更に、意識を集中していると、暖かくなってくるのがわかります。暖かい。暖かい。暖かい。
H全身にさりげなく意識を集中していると、何となく暖かくなる。暖かい。暖かい。暖かい。
Iおなかにさりげなく意識を集中していると、本当に暖かくなる。暖かい。暖かい。暖かい。
Jさりげなく額に意識を集中していると、涼しい感じがしてきます。やがて、本当に涼しくなる。本当に涼しくなる。涼しい。涼しい。涼しい。
以上十一項目を終了する頃には、緊張がほぐれてきてリラックスした状態になるのです。リラックスしてくると脳波がアルファ波状態になるのです。そこで、脳波がアルファ波の状態になったままで、自分の希望や願望を、力を入れずに心を鎮めさりげなく意識すれば良いのです。
脳波がアルファ波の状態で、希望や願望の成功イメージを思い浮かべますと、潜在意識に直接働きかける事ができ、希望や願望が達成すると言われているのです。ただし、自分の希望や願望は、常日頃十分すぎるほど意識上にあるはずですから、リラックスができ、力が抜けた状態になれば十分緊張が取れ、願望が達成できるものと思います。何度も、何度も、繰り返す事が大事なのです。「継続は力なり」と言われる所以ですから。是非実施する事をお勧め致します。
【呼吸法や瞑想を実施する時の注意、及び意識のあり方】
呼吸法を実施する場合、鼻から吸って口から吐くのですが、次のようなイメージをしながら行う事をお薦め致します。神様からの愛のエネルギーにより自分は満たされ、そして、守られているから大丈夫であると意識しながら実行すると良いようです。
その神様からの愛のエネルギーを、呼吸と一緒に頭頂部の中心より吸い込んで、身体の中心部を通し下腹部まで下げ、そのエネルギーによって自分の身体全体が浄化されていると意識しながら、約二秒間息を止め、更に、今度は、自分の身体を浄化した後のエネルギーを、身体の中心部を通し頭頂部の中心より吐きだし、その直後、再び、約二秒間息を止め、再度、呼吸法を繰り返す方法が良いと思っています。なぜ神様からの愛のエネルギーを、呼吸と一緒に、頭頂部の中心より吸い込んでいると意識しながら行うと良いと薦めるのかは、時々ではありますが、呼吸法や瞑想修行をしている方々の中に、頭部の調子が変であると訴えて私のところを訪ねる方があるのです。その際よく聞き取り判断すると、頭頂部に少しでもエネルギーの逃げ道があれば良いのですが、頭頂部が開放されていないため、様々なエネルギーが充満してしまい、頭痛などの偏差現象の原因を作ってしまっている方があるのです。この事を考えると、頭頂部は神様の領域と考えられている事を考えれば、神様と同程度の自然なる愛の精神状態に近づかなければ、覚醒はしないようなので十分に納得し、理解する事が大事と思われるのです。
ところで、この呼吸法は、腹式呼吸が最も良い方法とされているのです。しかし、よほどの訓練を積んだとしても、頭頂部から一気に最下部の下腹部まで息を吸い込む事は至難の業なのです。ところが、頭頂部より下腹部(スワディスターナチャクラ辺り)までなら楽に息を吸い込む事ができるのです。そこで、約二秒間息を止める間に、意識として最下腹部(ムーラダーラチャクラ辺り)まで下げる事をお薦め致します。また、腹式呼吸とは、横隔膜と下腹を使って呼吸をしなければならないのです。その際、息を吸いこむ場合には下腹を膨らまし、息を吐き出す場合には反対に下腹を凹まさなければならないのです。もしも、息を吐き切りにくい時には、身体の力を緩めると同時に、少し前かがみになる事により吐き切りやすくなるようです。
口から吐く際には、口をごく小さく開き、細く、長く、吐く事に注意をして意識して頂きたいのです。もっと良いのは、鼻から吸って鼻から吐くと良いと指導をする方もおります。どちらを選択するにしても、自分に合った方法にすれば良いと思います。また、息を吸いこむ、又は、吐き出す時間は、自分自身に合った長さで実施するのが最も良いが、可能な限り長時間になるように努力すべきであると考えられるのです。その際、吸う息よりも、吐く息の時間を長く取るのが最も良いとされているのです。
呼吸法の注意点として、呼吸法を始める場合には、まず、最初に息を吐ききる事から始めなければならないのです。なぜなら、息を吐かなければ新しい新鮮な酸素を吸いこむ事はできないのです。それは、病気を治したい時と同じで、最初に原因を捨てなければならないのです。
更に呼吸法に熟知してきた場合には、まず、軽く目を閉じ、できるだけ身体の力を抜き、自分自身の周り全てに神様の愛のエネルギーが充満し、自分自身もまたそのエネルギーにより優しく包まれていると意識し、呼吸をする度に神様の愛のエネルギーが自分自身の周りすべてより進入し、そして、溶け込み、その神様の愛のエネルギーにより、身体全体が浄化されていると意識する事をお薦め致します。
ところで、身体を浄化する方法として、小周天や大周天が重要として薦める方がありますが、私が体験した幽体離脱や、神様らしき光の発生源に溶け込んで神様と一体と化し、和合したように感じた時、この世に存在するすべての物が一体であると感じ、そして、理解をしたのであるから、自分の身体の中だけで、大局的エネルギーであるはずのエネルギーを巡らす事は、必ずしも正しい事にはならないと考えられるのです。ここの件の「一体である」については、【神様とは・愛とは・宇宙とは・自然とは】のところで詳しく述べているので参考にして頂きたいのです。
なお、女性の場合には、先天的に妊娠を想定し肺呼吸になっています。よって、下腹部を使っての呼吸には適さない事になるのです。従って、意識的に十分なる配慮が必要となるのです。
ところで、呼吸法や瞑想を実施する部屋の事ですが、一番静かな部屋で、落ち着く部屋が良いのではないのでしょうか。そのように落ち着く部屋でない場合には、良く呼吸法や瞑想ができないかも知れないので是非そのようにして頂きたいのです。できれば、暗くできる部屋ならなお結構です。座り方は、まず背筋を伸ばし、姿勢を整えて座ります。この時の座り方は、足を交差させる結跏趺座(けっかふざ。写真右)又は半結跏座(はんけっかざ。写真左)により足を組み、下半身を安定させて座ります。特に組みにくい時にはあぐらを組んでも良いでしょう。なお、それでも無理な場合には、椅子などに腰を掛け安定させて座ります。その際、椅子であっても、畳や床であっても、しっかりと背筋を伸ばし安定する座り方をします。更に安定する為には、お尻に座布団などを当てると腰が安定し座りも安定します。その時、肩は勿論の事、腕全体の力を抜き、手のひらを上方に向け、更に、親指と人差指を軽く合わせ膝の上に置きます。背筋は伸ばしますが、あごを浅くひき、顔はやや前に伏せ軽く目を閉じます。ここで大事なのは、背筋を伸ばした姿勢を保ちながら全身の力をできる限り抜く事なのです。また、指を合わせる行為は、チャクラの活動が活発になりだすと、エネルギーと思われるものにより、手の平に痛みを感じるようになるのです。そこで、指を合わせて、エネルギーを流すアースの状態にする事により、痛みを緩和する事ができるのです。
意識のあり方には、それぞれ特徴があって当然と思いますが、私がこの方法が一番良いと感じたものを記載します。まず、自分自身の意識を上空二メートルぐらいに置き、その上空二メートルぐらいの部分と、頭の天辺部分にあるサハスラーラチャクラがいつでも和合していると意識し、更に、その上空一メートルぐらいの上空に丸い傘の形状をしたものが存在し、その丸い傘の形状をした部分より、神様の愛のエネルギーが自分に対してサンサンと降り注ぎ、その神様からの愛のエネルギーにより自分は十分に満たされているから、何があっても大丈夫であると意識をしながら実施する事をお薦め致します。
それから、呼吸法や瞑想を実施する際には、自分自身の体内に悪いエネルギーや、カルマなどが存在するとイメージをするのではなく、私は確かに今日まで自然に即した生活状態ではなかった。しかし、身体の中には、元々そのようなものは最初から存在せず、ストレスによる滞りがあるだけで元々綺麗なものなのだから、大丈夫であるとイメージをする方が良いような気がしています。なぜなら、そのような事を認める事は、自分から自分自身は汚れていると認めるようなものなのです。それでは、最初からストレスの現況を発生させている事になってしまうのです。
もっと呼吸法や瞑想の体験が進んできた場合には、まず、軽く目を閉じ、できる限り身体の力を抜き、身体の周りすべてに神様の愛のエネルギーが充満し、優しく包まれ、そして、溶け込み、その神様の愛のエネルギーにより、身体全体が浄化されていると意識する事をお薦め致します。
ところで、チャクラに意識を集中しながら行う呼吸法や瞑想法を薦めている方がありますが、私が実際に体験した様々な現象を検討すれば、おのずと危険が隣り合わせである事が理解できると思います。従って、よほどの覚悟が備わった方でない限りお勧めする事はできないのです。その他の方法としては、【自律訓練法について】のところなどを参考にしながら、自分なりに工夫する事でも良いのではないでしょうか。
【私の現在の状況】
幽体離脱体験者の事などが書かれた書籍などを拝見致しますと、意識が身体より外れた場合にはトンネルらしきところをくぐる事があるようです。また、身体と意識が紐のようなものでつながっていると多くの方が証言をしています。しかし、私の場合には今日まで一度たりともそのような体験はありません。それから、現在の時点では、私の場合には意識が外れる事がなくなっております。なぜ、意識が外れなくなったのかよく検討しますと、どうも、自分自身の身体があるはずなのに、目を閉じたりしますと、なぜか意識だけになり、あるはずの肉体が透けて見えたり感じたりするのです。その事でもわかるように、肉体自体の自我意識が薄れているため、肉体から意識が外れていくのが自覚されなくなっているのかも知れません。それと最近では、自分が横になり寝ているはずなのに、宙に浮いているような、透明人間にでもなったように感じる真に不思議な感じがしてならないのです。
しかし、以前には意識が外れ、光が見え、光の塊が身体めがけて入る。意識が外れて飛んで行き光の塊に和合したように溶け込む、更には、建築物や色々な景色、人物、そして自分自身までもが、何千回となく光り輝いていたのです。その際、必ず光には色が付いている事や、物体が関係していたように感じていた記憶があります。
ところで最近では、光り輝いてはいないのだけれど、景色や色々なものなどが見えたり感じたりするようになっています。ところが不思議な事に、見えたり感じたりする景色や人物、物体なども自分の肉体のようにやはり透けて見えて、向こう側もやはり透けて見えるのです。ごく最近では目を閉じるとすぐに、周りに存在する全てのものが消え去るようにもなってきているのです。透ける理由をよく考えてみると、身体や魂に蓄積していたであろう汚れたエネルギー(警戒心、臆病、憎しみ、その他の病気などの恐怖心)などが、以前にチャクラの覚醒が始まった時に黒い塊となって放出したため、現在のエネルギーは、身体や魂が綺麗に浄化され、透けて見えるのではないかと、推測ではありますが、私自身はそのように解釈をしています。
本当の事を申しますと、私自身も、チャクラやクンダリニーの事などあまりよく知っているわけでもなく、何がどうなっているのか、最初のうちは途方に暮れるばかりであったのです。しかし、色々な不可思議な体験を繰り返すたびに、今度はどのように能力が変化して行くのかなと、期待をするようになっていったのです。ですから、この書籍に書かれてある事を、皆さんの修行のために参考にして頂けたなら、私も苦労をした事が報われます。
【私からのことば】
この書籍に書かれている事は、現実に起こった私の身体や意識の変化を書き記したものなのです。そのため、多くの方々が現在までに書き記した書籍などとは異なる表現になっているところが数多くあります。私には、経験不足な点などがあるとは思いますが、興味のある方や修行をなさっている方々のためになればと、私自身が体験した事を忠実に書き記したつもりです。ただし、様々な不可思議な体験の中には、表現が困難であった事が数多くありました。なにせ、どのように表現をし、書き記したらよいのか見当どころか想像もつかない事が数多かったのです。
私が、様々な不可思議な体験をする中で、瞑想や呼吸法などの修行をする場合には、絶対に注意をしなければならないと気付いた事を書き記したいと思います。呼吸法や瞑想を実施する際に、身体の中に悪いエネルギーや、カルマなどが存在しているとイメージをするのではなく、そのようなものは最初から存在せず、私は大丈夫であるとイメージしながら行った方がよいような気がしています。なぜなら、私が体験した幽体離脱や、神様らしき光の発生源に溶け込んで、神様と一体と化し和合したように感じた時、この世に存在するすべてのもの(すべてのものとは、物質として形のあるものは勿論、形がなくても感じるものなどを含む)には、表裏は存在するが、一体であると感じると共に理解をしたのです。従って、善も、悪も、ない事になると解釈しなければならないのです。この事は実際問題として、例えば、生は善で正しく、死は悪で間違いである。健康は善で正しく、病気は悪で間違いである。などと解釈して理解している事にもなり兼ねず、必ずしも正しい事にはならないと考えられるのです。
次に、光の世界なのか、無意識の世界なのか、それとも、神様の世界(宗教の教えではマンダラの世界)なのかよくわからないのですが、そのよくわからない世界に入り込んで行く時に、どのような表現をしても、絶対に足りないほどの恐怖感を味わう事を、知識として記憶しておかなくてはいけないような気がいたします。どのような事が起こるかと申しますと、自分の存在はおろか、地球までもが自分の記憶から、そう、物質の世界である三次元の世界のすべてと言ってもよいかも知れませんが、一瞬にしてなくなる感じがするのです。そうですね、簡単に言ってしまえば死、または、無とか空そのものです。そう、一般に言われている死を恐れているうちは、うまく修行はできませんし、私の体験した事があまりよく理解できないような気がしています。
【プロフィール】
北沢 勇人(きたざわ はやと)
昭和25年7月25日生まれ
昭和49年 職業訓練指導員 合格
昭和55年 一級建築士 合格
昭和55年 宅地建物取引主任者 合格
昭和60年 一級建築施工管理技師 合格
平成5年 会社の経営内容を改善するため、能力開発の目的で、身体の力が抜け、リラックス状態の時に出る脳波・アルファ波をいつでも出せるようにと呼吸法や瞑想などを続け、その結果、突然強力な光を見る体験をして以来、病気を改善させたり、癒したりする能力を発揮できるようになる。
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