気功に優る天啓気療を実施した時の改善しやすい方になる |
||||
私が、「腰の具合はどうですか」と尋ねた事に対し、改善しやすい方は、「そうだな、まだ少し痛みが残っているが、来た時よりだいぶ改善しているな」と応えます。 それに対して改善しにくい方は、「来た時よりだいぶ改善しているが、まだ、少し痛みは残っているな」と応えるのです。この件は、よく考えるとわかるのですが、改善しやすい方は改善した事を強調していることになります。 一方改善しにくい方は、改善しない部分を強調しています。つまり、改善しやすい方は改善した部分を探し求め、改善しにくい方は改善していない部分を探し求めている事になります。 その後、再び私の所を訪れる頃になると、歴然として改善の度合いが異なっているのです。ようするに、応えた答えは同じであっても、意識に対するエネルギーの配分や捕らえ方が異なっているだけでも、短期間に歴然と違いが現れてくるのです。ですから、意識のあり方や愛のあり方の配分が大事なのです。 ところで、後日なって、ああなった、こうなったと言ってくる方もありますが、その方もまた、改善しない部分を探し、そして、強調している事が大半であるのです。これでは、改善しにくくなってくる事を望んでいるとしか解釈できないのです。ですから、例えば、軽い病気になったとしても、意識のあり方によって、良き方向に進むのも悪しき方向に進むのも、夫々の考え方次第であり自由自在に変化するものなのです。
なお、天啓気療を実施した場合に、改善しやすい方々と改善しにくい方々の場合の違いなどを具体的に下記に述べるので参考にして頂きたい。 【天啓気療を実施した場合改善しやすい方】 病気を「治した」「治った」とよく聞きますが、これには問題があると思います。いくら能力があり素晴らしくとも、あくまでも皆様の持っている自然治癒力を活発に活動させただけであり、それは、病気を治したのではないと私は思っています。私はいつも「自然治癒力を活発に活動させるのであり、一概には言えないのかも知れませんが、改善しています」と応えています。 ただし、意識のあり方や愛のあり方により、個人差は著しくあることも事実なのです。ですから、意識のあり方や愛のあり方が大事であると何度も何度も強調して述べているのです。 様々なエネルギーに対する感受性には、個人差があり、感受性の強い方も弱い方もいます。感受性の強い方は、天啓気療効果も即座に現れ、改善しやすいものなのです。改善しやすい方の場合には、私がエネルギーを送りだすとほぼ同時に、手や足は勿論、全身がしびれたようになり、身体から力が抜け、手や足は勿論、身体までも動かす事ができないようになるのです。更に、ほんのりと身体が温かくなり、異常と言うほど眠気や倦怠感が感じられるようになります。
第一、改善しやすい方と言っても、様々なタイプがある。 まず最初にあげられるのが、私の所に来て天啓気療を受けた方で、自分が改善したのだからと、多くの方々に対して私の不思議な能力を紹介する方が改善しやすい方と言っても良いような気がするのです。更に改善しやすい方は、第一の条件と、次に述べる第二の条件双方を持ち合わせている方であることを述べておきます。 この方の場合には、自分自身も今日まで病気などにて様々な苦労をした訳ですが、その苦労と同じ事を自分以外の方もまたしている事を察し、自分以外の方々にも自分の味わった幸せを少しでも分けてあげたいとする、自然なる愛の心が働き私のことを紹介しているものと考えられるのです。 しかし、ここで最も理解をし注目しなければならないのは、自分以外の方々に対し手をかざすだけで病気が治ったと説得をするのにはよほどの覚悟がなければ、説明は勿論、説得など全くできないのが現状である。 なぜなら、「 貴方はだまされているのよ、手をかざしただけで病気が治ったなんてあるはずがない。そんな方法で簡単に治るのだったら、医者や病院が要らないわよ」と白い目でみられ、更には、軽べつされかねないのが、日本の現在の実状であるからなのです。また、「以前にあったじゃない、人をだました宗教が、あれと同じで 貴方はだまされているのよ」と笑われる事などがある。更には、そのような事を信じて他人をだましてはならないと忠告される事さえあるのです。 そのような事情があるにも係わらず、説明をして説得できるのは、私を信頼するからこそ、そして、自分自身をも信頼し、他人をも幸せにしたいと願うからこそであり、何を言われようと恐れずに、自然に真心を込めて紹介する行為を実施したためにできた結果なのです。 この行為こそ、自然であり、見返りを求めない愛そのものである事が理解できるのです。このようにして紹介などができる方は、後にも記しているが、アナハタチャクラの特徴を理解する事により納得できるものなのです。 従って、その方の話を素直に受け取った方の場合には、特に私の治療に対しても信頼を増し、そして更に、紹介をした方をも信頼し、また、自分をも信頼している事が判明するのです。この方の場合にも、紹介をしてくれた方と縁があった事を理解すれば判明するのですが、やはり、アナハタチャクラに特徴がある事が理解できるものです。 なぜなら、その紹介をする方々の意識が正常なら、付き合う方や縁ある方もやはり同じようなタイプであり、正常であり自然の法則に則した意識状態である事がほとんどなのです。よって、その方もまた正常なる判断をするものなのです。この事は、昔からのことわざに、「同じ穴の狢」とか、「朱に交われば赤くなる」などとして戒められているので理解ができるはずです。 ですから、自分が良き方向に進みたいのなら、そして、自分の幸せを願うなら、他人を恨み落とし入れようなどとは考えない事が重要なのです。更に、いつでも自分自身の行動や態度などには気を付けなければならないのです。誰も見ていないから「大丈夫」とはならないのです。絶対に間違ってならないのは、自分の行為や心の思いは、他人に対しては秘密にできますが、自分自身に対しては、うそやごまかしは絶対にできないのですから、注意が最も必要であり大事なことなのです。 ところで、その紹介されて私の所を訪れた方もまた、私との間の信頼関係が予めできあがっており、より一層改善しやすくなるのです。ですから、私の所を尋ねる頃には既に身体の不調だった部分が完全と言わないまでも回復していたり、精神的や身体的に悩んでいたものが無くなったり軽減されていたりする事があるのです。 今日まで自我のあり方によって体調が優れていなかった方が自分以外の方の話を素直に聞く事ができるようになると、今日まで不足していた自然の法則に則した心や愛の心が呼び起こされてくるのです。すると、自我が鎮まり緊張が取れてきてリラックスしてくるのです。従って、前記のような素晴らしい現象内容が起こってくるのです。 昔から愛とは、人のためになれば良いと願いながら黙って役に立つ事とか、報酬を求めず人の役に立つ事などと言われているのです。この自然に行った行為こそ、愛がある行為愛そのものなのです。昔から、「皆さんに愛があれば、愛によって救われる」と言われている所以である事が納得できるはずです。 いつも私は、全ての治療方法に共通しているのは、無条件の愛があってこそ実現できるのであって、見掛けの愛であってはならないと話をしているのです。見掛けの愛とは、単に、あの人が好きだとか、男性が女性を、女性が男性を好きになったから愛であるなどと表現される場合があるのです。 この愛とは、動物的肉体的情愛であって愛ではないのです。愛とは、誰に対してでも無条件に見返りを求めない状態であり、例え、自分自身が不利になったとしても相手を思いやり、認め、許す事ができる場合の心のあり方を言うと考えられるのです。 ここで注意すべき点は、例えば、過去に受けた数々の虐待やいじめなどの事実をいつまでも認める事ができず、更に、受けた相手を許す事ができずにうらんでいる場合など、極力、純粋な愛や素直さを持って自分自身に対して対処するようにしないと取り返しのつかないほど自分自身を痛めつけ、膨大なるストレスを生む事となるので特に注意が必要なのです。真実の愛については、【神様とは・愛とは・宇宙とは・自然とは】のところで詳しく述べる事にする。
第二、表情が明るい場合である。 表情が明るい方の場合には、意識が自分の内側を見つめている場合より外側を見つめている場合が多いのです。つまり、外部に存在する全てに対するものに対してはであるが、勿論自分以外の方々も含まれているのです。その中には、他人に関する感情や心使いなども含まれているものと解釈できるのです。 自分以外の外部を見つめると体調が回復しやすいのは、意識が外側を向いている場合には外交的な方であり楽天的な方である。よって、病気などにくよくよ悩んでいない事が特徴としてあげられるのです。 この方々の場合には、アナハタチャクラの良い面が発揮されているのです。ただし、周りの方々を気にもせず、遠慮もせず、考えもせず、ヘラヘラとしていると言う意味ではないので注意が必要であり重要なのです。この方々の場合には、自分の主張のみをしているのであって、ムーラダーラチャクラやスワディスターナチャクラの悪い面が出ているだけなので注意が必要です。 昔からよく言われる教訓に、もし病気が治りたかったら〔人のために尽くす事、尽くしておく事〕〔病気になったのだから戦わない事、あきらめる事。そして、病気である事を認める事。更に、病気の事を忘れる事〕などが述べられている。ただし、その場合であっても、第一の条件に該当する部分が少しもないと認められる場合には改善は難しいのかも知れない。
【天啓気療を実施しても改善しにくい方】 様々なエネルギーに対する感受性には、個人差があり、感受性の強い方も弱い方もいますが、感受性の弱い方の場合には、天啓気療の効果も弱い場合があります。感受性の弱い方の場合には、警戒心、嫉妬、悲しみ、臆病、憎しみ、その他、病気の恐怖などに対して必要以上に敏感になっている場合が多いようです。 ありとあらゆる物事に該当するのではあるが、著しく物事や物に対しての執着欲、恐怖心(自分で気付く場合は少ない)などが心の奥底に潜んでいる場合などには、改善もまた難いことになるのです。特に、著しくお金や土地などに執着している場合や、幼少期に虐待などの恐怖体験をしている場合などには改善しにくいような気がする。また、幼少期に虐めなどの恐怖を体験した場合であっても、親などの喧嘩の様子を目撃して恐怖体験をしていた場合などにも同様に改善しにくくなっているようです。 理由はどうであれ、何度も簡単に時間を変更したりする方や、時間を守らない方の場合もやはり改善はしにくいと考えなければならないのです。例え交通の事情や仕事の事情があったとしても、同様となるところが不思議なところなのです。時間の場合などは、相手に対して迷惑がかかるばかりではなく、他の方々の時間をも消費しまっていると考えられるのです。 要するに、他の方々に与えられた時間を消費するだけではなく、時間内に予定していた権利まで奪うことになるのです。約束の時間が少しぐらい遅れたとて迷惑がかからないのではないかとの意見もあると思いますが、誰が考えても迷惑と感じられる事柄は慎まなければならないのです。 この事を考えるに、病気などから開放され自分が幸せになりたいのなら、この教訓や自我について、他人に与えられた権利などを奪ったり、落とし入れたり恨んだりする事は何であるかを、そして、お金とは、時間とは、個人の自由とは何のために、そして、いずれのために存在するのかなどを、もう一度初心に立ち返り検討してみる事も心得なければならないような気がするのです。絶対に守らなければならないのは、自然の法則であり約束事なのです。自分を含め他の方々も法律用語で自然人と言います。つまり、自分を含め他人もまた自然人であるからには、自然の法則に従って暮らす方法以外あり得ないのです。 生活をしていく中で家族や重要な方々などに対して、自分自身の病気や悩みを秘密にしている場合なども改善はしにくいようなので気を付けなければならないのです。また、自分に対して不利になるからとして廻りの方々に様々な事などを秘密にしている場合や、自分だけは幸せになりたいが他の方々には幸せになってほしくない方なども同様のように感じます。 どのようなことかと申しますと、例えば、病気などを改善させることのできる素晴らしい方などがいることを知っていても秘密にする方などは、心の奥底に無意識ではあるが他の方々には幸せになってほしくないとの意識が潜んでいると考えても良いのです。従って、この方などは改善しにくいのです。ですから、他の方々に対し、私のことなどを紹介する方が一番改善しやすいのかも知れないのです。理由は別として、自分自身を守るために他人を落とし入れようなどと考えない事が最も大事なのです。 極端に改善しにくい方の場合には、自分自身の心の中では改善したいと強く願っているのではあるが、心を素直に開放できない事が多いようです。どのような事かと申しますと、まず、感激した時や悲しんだ時などに素直に涙が出てこない方、普段は絶対に泣かない方、心の中では泣くが外見的には涙を流す事ができない場合などがあるのです。つまり、心の緊張を開放する事が少ない場合などがあげられるのです。 涙を流す事ができる環境になかった場合(特に幼少期に両親などの虐待などがあり、泣く事を強制的に禁止されていた場合など)や、現在も涙を流して泣ける環境ではない場合などには改善はしにくいようです。従って、心のあり方で、同情心や愛について私が強調している事が理解できるはずです。なお、涙は血液の一部である事が判明している事からも考えてみれば、たびかさなる様々な緊張から血液自体もまた病気と同様になっていて正常なる働きができないものと考えられるのです。 改善しにくい方の場合には、理由は別として、自分自身の自然治癒能力や行動に対しても信頼をしていない事が多いようです。この方々の場合には、他人をもまた信頼できない事が多いので特に注意が必要なのです。 幼少期に虐待などを受けた経験がある場合や、両親がどちらかでもいじめられていたり、ないがしろにされている事を目撃していたりする場合には、警戒心が何に対してでも極端に強くなっており、簡単には、例え誰に対してであっても心を開く事はできないようなのです。この方々の場合、心を開こうと努力すると過去にあった体験に関連するものと思われる現象に類似する極端なる恐怖体験をするので、治療をする側も、なぜ恐怖体験をするのかなど理解をしてあげ、更なる愛を持って対処し、細心の注意を払わなければならないようなのです。 全ての方々ではないが、方々の治療院はもとより、方々の病院などにかけもちで通院している場合などには、悲惨な状態や結果になる事が多いようなのです。理由としては、どこの治療師であろうとも、医師であろうとも、信頼をしていない事になり、自分自身の事もまた信頼しているとは言いがたいようなのです。 この方々の場合には、他力本願であり、自分に原因があるにも係わらず、認めて受け入れようとしていない事になるのです。また、誰であっても自然治癒する能力を持ち合わせているにも係わらず、自分の本来持ち合わせている自然治癒力などは全くないがしろにしている事が多いようなのです。 また更に、私が、愛や心のあり方により改善する度合いが異なる事、いちじるしく物事や物に対しての執着欲がある場合や、相手を認めて許す事ができない方の場合には、例え過去の問題であっても、現在の問題であっても、著しく好転反応らしき現象に悩み、そして、苦しむ事があるし、改善しにくい場合があるのです。と、説きながら、天啓気療を実施しているにも係わらず、 貴方は改善すると言っていたが、自分は改善しないのであるから貴方はうそをついていると攻撃をする方が稀ではありますがあるのです。また、だるくなったり、痛みが出たりするなどの好転反応と思われる現象についてがあるとは言っていたが、今までより、興奮してきたり、元気になっているから、 貴方は嘘を言っていたなどと攻撃をしてくる方なども見受けられる。 好転反応と思われる現象についてについてはこちらです。このように相手を攻撃する方の場合には、著しく悩み苦しむ事があるので注意が特に必要と思っています。この方の場合には、後日取り返しのつかない事が起こり、想像を超えた現象を体験する事になる場合が多いようです。例え、その攻撃をした方が本人の家族や友人であろうとも、同様となるようですから注意が必要です。このことは、家族も、友人も、縁ある方は同じ意識のあり方や愛のあり方であることが判明するのです。更に、私は治らなかった。と、後日になってから攻撃をしたとしても同じ結果になるようです。 なぜなら、この方々は、心の中に、以前よりこのような攻撃する意識を潜ませていたと考えるべきなのかも知れないのです。従って、改善がしにくかったのです。ですから、心のあり方や愛のあり方について、もう一度考えてみるべきことなのかも知れないのです。また、知り合いの方などに、例え誰の事であっても「どこどこのあの人は良くない」等と触れ回る場合などには全くもって問題にならないのですから注意が必要です。 特に改善しにくい方の場合には、治療を始まる前に好転反応らしき現象がある事を話しているにも拘わらず、後日になり、好転反応らしき現象がひどいなどと述べる方なのです。つまり、好転反応と思われる現象についてが病気などの急激な改善には必要不可欠であると説明をしているにも拘わらず、楽をして病気などから逃れようとしていることがわかります。 病気などになった原因は、ほとんどの場合本人の心のあり方や周りの方々などの心のあり方などが、自然の法則に即していない状態であったため過大なるストレスとなり、精神及び肉体に対して影響を与えているからであり、それに対して天啓気療を施した場合、自然のあるべき姿の状態に急激に変化させ戻そうとするため発生する一過性の現象、それが、好転反応と思われる現象についてなのです。 この方々の場合、病気などの原因は、自分自身の心のあり方自体にあることを認めたくないと言う意識が隠れた状態なのかも知れない。また、好転反応らしき現象がないから、 貴方は嘘を言っているなどと攻め立てる方と言っても良いようです。この方々は、自分自身の心のあり方、環境や行動などには目もくれず、自分の考えそのものを押しつけてしまおうとしていることが判明する。要するに、自分自身の事柄の責任を他人に押し付けて正当化しようとしていることが判明するのです。
【天啓気療を実施しても著しく改善しにくい方】 最も改善が困難な例としては、自分自身では様々な出来事に対して責任があると自覚しているのではあるが、自分自身には責任がないとして言い逃れている方々のようです。この方々の場合は、与えられた責任はそっちのけにし、自分の権利ばかりを主張している事が多いのです。 何故そのような事があるのかははっきりしないのですが、土地などの財産やお金に対して著しく執着している場合、また、領収書を要求した場合もまた改善しにくいようなのです。領収書の場合は料金を支払ったのであるから、領収書の要求は当然とも考えられます。しかし、領収書を要求をした方の場合や、お金がいくら必要になるなどと述べている方の場合には、特に改善しにくいようなのです。改善しにくいと言うより改善が難しいと言っても言い過ぎではないようなのです。 財産やお金に対して著しく執着している場合や、領収書を要求した場合に改善しにくいかの件については、私は宗教者ではないのですが、私が手をかざすだけの行為にて、何故に病気などを改善させてしまう能力が授かっているのか、愛とは、慈悲とは、神とは、賽銭とは、施しとは、宗教とは、布施とはなどについての意味をもう一度真剣になって考えてみなければならないのかも知れないのです。何故なら、自我そのもの(欲の心・著しい執着心)が人生を左右するものであることを知らなければならないのです。 一般的常識とされているものが、自然の法則から考えた場合には、全く反している場合もあるのですから注意が必要なのです。自然の法則は、絶対的なものであって、特別な例外などは全くあり得ないのです。さらに申せば、個人の意志などに影響さるることなど全くあり得ないのです。
改善しやすい方か改善しにくい方かの判断は個人の自由意思に任されています。更に申せば、私を信用するのもしないのも自由なのです。ですから私は、私のところを訪れるかどおかの判断は、個人の自由意思に任されているのですと述べているのです。 要するに、後日になって苦情を述べる方や責任を擦り付ける方などには、私の能力を利用して頂きたくないのです。責任逃れをしていると言われそうですが、他の多くの方々の為には、断ることも必要と考えています。私は医師でもなく薬剤師でもないのです。よって、治っていないなどの苦情や責任には対応しておりませんのでご理解下さい。 このページの内容を検討すると、私の能力がない為の言い訳のようにも取られかねない。しかし、冷静になり自然の法則や愛のあり方などを考えれば納得することになると思います。心を落ち着けて考えてみることをお薦めいたします。 |