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精神世界へようこそ・守護霊と指導霊宗教について考えたこともないような青少年たちが気軽に守護霊や背後霊などという言葉を口にして仲間内での話の種にしたりしています。人々は興味本位で心霊現象や霊の世界のことを話題にしたりしますが、科学ではその存在が決して証明されることがない、霊という不可視で人間の感覚では把握できないものを、現代の物質主義的日本人が心底から信じているとは、私には到底思えません。多くの現代人にとって、目に見える具体的な事象だけが信じられるものであって、不可視の形而上領域は顧慮するほどの価値さえもない、とでも思っているのではないでしょうか。現代の日本人は、形而上の事象を思索しようとする積極性も持たず、生の哲学や宗教から常に一歩退いた状態で踏みとどまっているように私には思えます。従って、人々が日常で話題とする宗教的な事柄とは、真実の宗教的知識を伴った体験や認識によって裏打ちされていない、守護霊や背後霊といった曖昧模糊とした神霊に関わる話に終始してしまうのです。 それぞれの人を守護する守護霊なるものがすべての人間についているのかどうかは私には解りませんが、人が信仰の道に入り、正しい求道心を護持してその度を深めていくと、霊性の道において求道者を正しく導き守る指導霊というものが求道者に関わってくるのは確かなようです。指導霊の存在に関して私が断定的なことを言いますのは、私がそれを個人的に体験しているからです。私は守護霊に関わる体験は持ちませんので、それについては断定的な意見を言う資格がありませんけれども、守護霊というものの実態に関して私が推量することは、かよわく無防備な幼子や子供たちを守ってあげたいと思う、愛情あふれる心優しい人々の慈愛の念が集積したものではないだろうかということです。全く無防備の赤子や頑是ない小児を守ろうとするのは、すべての人間の心の中にある本能的な愛情であり、慈しみの感情でしょう。子供を持つ親の身としては、ましてや血を分けた自己の分身である我が子を慈しみ、とても大切に思うものでしょう。それは人間の自然な感情です。かよわく、自分自身の身を守る術を持たない無防備な子供たちに対する、親や心優しい人々の慈しみの思いが、巨大なる慈愛の想念となって、子供たちを守る守護霊のような役割を果たしているのではないでしょうか。そしてまた、人間は連綿と続く血脈を受け継いでいるものですから、子孫に対する先祖代々の愛念も受けているでしょうし、現象界というこの世界を守っておられる諸々の神霊方による加護の念も人間は享受していることでしょう。特に無心なる幼子や子供たちは、その清浄無垢さゆえに、神霊方がこの世にあまねく放射する加護の念を全身全霊で受けて、多大な恩恵に浴していることでしょう。 人の思いというものは実体を有するものであり、その思いが強ければ強いほど、それは強大な思念となって、この現象界に影響を及ぼすものです。人の意識が生み出した想念は生きている実体であり、その想念が有する性質に基づいてさまざまな作用が現象界に顕れ出ます。従って、他者に対する人々の慈愛の思いが、守護霊と呼ばれるような作用を為していると考えてもよいのではないでしょうか。慈愛の想念が為す働きに対して、守護霊という言葉を使ってもよいものならば、それぞれの人間を守る守護霊は確かに存在すると言ってもよいのかもしれません。 人が自己の存在理由や人生の意義というような生の哲学を模索し始めると、人は必然的に求道心を持つようになります。そして、人が求道心を篤くして、宗教という精神世界に深く入りこむようになると、必ずや霊そのものと関わるようになるものです。このとき、求道者が相当に慎重でないと、自己に関わってくる霊が善霊であるのか邪霊であるのかを見極めることができずに、本来であれば、自己の霊性を高めるはずの宗教が、逆に自己の霊性を貶めてしまうという災厄を自ら招いてしまうことも起こり得るでしょう。宗教において審神(さにわ)の重要性が問われる所以がここにあります。実際に、自己に関わってくる霊が正善なるものか邪悪なるものかを見極めることは至難な技に違いありません。霊が目に見えるものならば、視覚や他の感覚器官を通して対象を認知し、その実体の性質を或る程度は判断できますが、霊は目に見えませんから、肉体を持って此岸(しがん)に生きる人間の側から霊の正邪を判断するのは、盲人が色を識別することと同じほどに困難でしょう。宗教に参学する者にとってさえ、霊の正邪を見定めることが難事であるのに、ましてや宗教的素養を持たない一般大衆にとって、不可視の世界は、盲聾のごとく、認識の手段が完全に剥奪された状況に置かれるようなものでしょう。従って、宗教を顕教的にさえ学ぼうとしない一般大衆は、世間で宗教家と呼ばれるような人々に対して、その人物が霊性の道を正しく歩んでいる真実の求道者であるのか、低級な霊に憑依されて神がかりと言われるような行為を為して、宗教の真実を知らない蒙昧な人々から金を巻きあげているだけの物欲的な偽宗教家なのかを識別できませんし、また、諸々の宗教的儀礼や行法に対しても是非の判断がつかないのです。 人が生の真実を求めて霊性求道に入るとき、人は不可視の世界を手探りで進むのですから、常に慎重でなければなりません。霊性の道を歩むことは、誠に剃刀の刃のような峻険な道を行くことなのです。霊性の道の峻厳さを知らず、愚かな勇猛心だけで道に踏みこむならば、人は正しい道筋が見出せずに、道を踏み外して奈落に転落したり、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の幽冥界に迷いこんでしまったりするでしょう。求道者にとって唯一安全な道があり、それは倫理道徳に基づいた清廉潔白な生を導き、顕教によって宗教の知識をしっかりと身につけて、そして霊性の道をゆっくりと確実に歩んでいくことです。心が純粋でないかぎり、人は霊性における進歩の階梯を昇っていくことはできないでしょう。求道する動機が正しいものであれば、霊性求道において道を踏み外すことはないでしょうが、現世利益や自己利益を求めようとする物欲的な動機で宗教に関わるならば、そのような卑しい動機を持つ人間は必ずと言ってよいほど、正しい霊性求道から外れてしまって、転落の憂き目にあうでしょう。宗教の根本義とは、意識進化を図って、より高次の意識界に上昇することであって、物欲に基づく自己利益や現世利益を求めることではありません。不可思議な霊現象を引き起こす心霊力を獲得して、それを用いて自己利益をもくろむことは、自己の霊性を高めることが本来の目的である真正宗教とは逆行することであり、そのような意図を持つ人間はますます物質性に繋ぎ止められる結果となってしまうでしょう。それは、宗教の本質である意識進化の道からそれることであり、人間にとって哀れで、そして恐ろしいことでもあります。 霊性修行を行じている修行者に霊が関わってくるとき、その霊が善霊であるか邪霊であるかは、結局のところ、求道者自身の霊性の高低と求道の動機如何にかかっているのです。生における絶対真理を探究しようとする道心が堅固で、物質性に些かも心惑わされず、心の純化を霊性修行の要諦として、ただひたすら自己の心を純化することに修行の日々を費やしている霊性修行者は、その真摯な求道の熱意が神霊の嘉(よみ)するところとなり、修行者は神霊によって守られ、教導を受けるようになるでしょう。神霊の加護と教導を受けていても、修行者は初めのうちは自分が神霊の加護のもとにあることに全く気がつかないかもしれません。高位の神霊ほど、その存在を修行者に開顕することが少なく、修行者が試練である幾多の艱難辛苦を自力で乗り越えて、不退転の決意で霊性の道を歩んでいるとき、指導霊が徐々にその存在を求道者に知らしめるようになるのです。 日々、感謝の祈りを捧げ、霊性においてより善き生を生きることができるようにと真摯に祈って、正しく生きている人は、やがて指導霊が自分を導いていてくださることに気がつくようになるものです。指導霊からの言葉を直接的に耳に聞くというのではありませんが、求道者はなんとなく自分が導かれていることを感じるようになり、そして自分自身や自分の身の周りで起こることを注意深く観察しているうちに、指導霊が自分を守り、導いてくださっていることに確信が持てるようになるのです。指導霊が耳元に話しかけるというのではなく、心のうちで話しかけてくるような感覚が求道者に生じるのですが、初めそれは自分が心の中で独白しているのかと誤解することもあります。けれどもそのうちに、自分が心の中で自問自答しているのではなく、何者かが自分に話しかけていることを求道者ははっきりと認識し、自分を守り導いてくださる指導霊が存在していることを理解するのです。 霊性修行の道程で迷いや疑念が生じたようなとき、真剣に祈り、そして瞑想すると、その迷いや疑念に対する答えが心のうちで閃きのように生じます。初め、心の中でのそうしたやりとりは、自分自身の自問自答にすぎないように思えるのですが、修行の年月を経るにつれ、それは自問自答ではないと知るようになります。その理由は、求道者が心のうちで迷ったり悩んだりしている問題に対して、解決をもたらすような、的確で正鵠(せいこく)を得た指示や示唆が与えられるからです。しかも、その指示や示唆は、自分が日常で用いるはずのない言葉遣いで話されたりするのです。心の中での対話が幾度か生じて、示唆のとおりに物事が展開していくことに対して、驚異と畏敬の念を覚えるようになるのですが、そのときにはもう、求道者は自分が指導霊の導きを受けていることに疑いを持つというようなこともありません。 しかし、心のうちでの対話が常に生じているのかというと、そうではありません。ときに、一方的に示唆が与えられたり、あるいは困難な問題を抱えて苦悩しているとき、瞑想して心が静まったときに、問題解決に至るようなヒントが与えられたりすることもあります。いずれにしても、求道者が心の中で抱いている苦悩や疑問や問いかけに対して、決して自分自身の言葉ではなく、他の何者かによる指示や示唆が与えられるのです。求道者が心に抱える問題に対して、明確な言葉で答えが示されなくても、苦悶している悩みに対して解決へと向かう動きを求道者自身が自然に為さしめられて、苦悶苦闘から離れることが可能となるようなこともしばしば起こるのです。道を踏み外さないように日々の行ないに気をつけながら、心を常に指導霊に向けて生きていると、自分が生かされ、学ばされていることに気がつきます。ときに、自分にとっては途方もないほどの大きな試練に直面させられることもありますが、自分を導いてくださる指導霊に対して揺るぎない信頼を寄せて、そして自力で試練を切り抜けるべく智慧と才覚とを以って身を処すると、如何なる試練であっても、必ず乗り越えることができるのです。いくたびかの試練を乗り越えたことにより、自分が精神的に大きく成長したことが感得され、神霊の不可思議なはからいにひたすら畏怖の念を覚えるものです。常に油断せず、慢心を抱かず、増上慢にならず、心を引き締めて求道の道に精進するならば、霊性修行において邪霊の陥穽に陥ることなど決して起こらないでしょう。ですから、霊性求道をむやみに恐れる必要はありません。けれども、霊性修行の目的が物欲にからんだ自己利益を図るためであると、何度も繰り返して言いますが、霊性修行の過程で邪霊に憑依されて自己を貶めてしまう悲しい結果になってしまうでしょう。低劣な求道の意図を持った修行者の心の中に物欲という悪魔が棲みついているのですから、物質から遠く離れて存在している神霊や善霊は、そうした物欲的な人間に関わるはずがありません。現世利益という、物欲に基づいて霊性修行を為す利己的な修行者には当然ながら、俗界に執着し、霊界では成就されない物質的な快楽を、生きている人間を通して得ることを渇望している低級な霊が関わってくるのです。そのような霊は地上で生きていたとき、その修行者と同様な意図を持って霊的な行を積んで霊力を身につけた者でしょう。物質に執着する霊は、高次の意識界へと上昇することができずに、物質界近くに留まって、自分と同じような目的を持ち、類似の意識波動を有する修行者に憑依して、自己の欲望の充足を図ろうとするのです。ですから、自己の進歩向上を心から願う、霊性求道の意思が強固な人は、邪霊に憑依される危険を回避するために、まずは宗教の本義を顕教で学び、自己の霊性を高めることが宗教の要諦であることを完全に得心してから、形而上領域である霊の世界に参入すべく、慎重に密教的行法を修していくべきでしょう。 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