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精神世界へようこそ・プラス思考とマイナス思考人間は、物事をポジティヴ(肯定的)に捉える人と、ネガティヴ(否定的)に捉える人の二種類に大別できるように思います。物事をポジティヴに見ることができる人は概してプラス思考の人であり、また、ネガティヴに捉える人はマイナス思考になりがちな人と言えるのではないでしょうか。この世で人が生きていくかぎり、人は自分の周囲で生じるさまざまな物事に対して、的確な判断を下したり、適切に対処していかなければなりません。そのとき、物事をどのように考え、どのように対処するかで、人生の流れが大きく左右されるようです。如何なる事柄に対してもプラス思考で対処できる人は、物事を自分の思い通りに、しかも適切に処理することができるだろうと思います。これに反して、常にマイナス思考になりがちな人は、物事を的確に判断したり処理したりすることができずに、不満足な結果で終わってしまうのではないでしょうか。 概してプラス思考の人は、自分が関わる物事をしっかりと受け止めて、そしてポジティヴな見方で、積極果敢に取り組む姿勢をみせることでしょう。人が物事に関わるとき、その物事のあらゆる面を深く考察すると、その事柄のさまざまな局面がよく見えてくるようになるものです。物事のさまざまな局面がよく見えてくるということは、すなわち、その物事をすでに理解したということを意味しているのです。そして物事の流れを洞察できたときに、人が適切に対処するならば、ほとんどのことは必ず良い方向で終わらすことができるものです。仮に物事が良い結果で終わらなかったとしても、物事をポジティヴに考えられる人は、その失敗と言えるような経験から学ぶべきことをしっかりと学んで、後にその経験を生かすことができるでしょう。一方、マイナス思考の人は、物事に取り組むことに対して最初から消極的であり、しかもネガティヴな見方が心に根づいていますので、物事を介しての経験から多くを学ぶことができないのです。経験から人が何かを学ぼうとしないならば、その経験は有益なものとはならず、人は精神的に成長することができません。 この世で生きていく上で、人はいろいろな物事に関わってさまざまな経験をします。人が人生で得る経験とは、楽しかったこと、嬉しかったことなどの良い思い出となった経験、あるいは、悲しかったこと、辛かったことなどの嫌な思い出となった経験など、実に種々様々でしょう。人は、人生においていろいろな経験をして、そしてそれらの経験から多くのことを学ばなければなりません。経験することとは、すなわち、生を学ぶということでしょう。諸々の経験の中には、悲しすぎて、辛すぎて、忘れてしまいたいと思うほどの嫌な思い出となった経験もあることでしょう。概して人間は、良い思い出だけに執着し、嫌な思い出を斥けたいと思うものです。けれど、人が持つすべての経験は、その人がその人生で必要とされるものであるからこそ、生じた経験なのです。良い経験であろうと、嫌な経験であろうと、その人が得たすべての経験は、その人にとって貴重な経験です。しかも、辛くて悲しかったような経験ほど、その人にとってはとても貴重な経験だったのです。 楽しい経験や喜ばしい経験を持つことは人間にとっては大切なことではありますが、むしろ辛くて、乗り越えるのが大変だったと思えるような経験のほうが、人間にとっては精神的に大きく成長できる機会でしょう。苛酷な試練に立たされたようなときや、逆境に置かれたときに、人はネガティヴに考えてはなりません。困難な問題を抱えて辛い状況にあっても、人は常に前向きに考え、その困難を乗り越えて、辛い経験を有益な経験にしなければならないのです。しかし、辛いときにもポジティヴに考えるべしと言われても、普通の人間にとって前向きで肯定的な心構えを持つことは容易なことではありません。ましてや、それが非常に苦しい困難な状況であれば、なおさらのこと、肯定的には考えられないものです。けれど、そうではあっても、人は常にプラス思考でなければならないのです。と言うのは、人間とは意識であり、どのような困難な状況にあっても、悪い思いやネガティヴな思念を意識に根づかせてはならないからです。良くない思い、ネガティブな思念を心に抱いたからといって、すぐにその反動が現れてくるわけではありませんが、心にとって良くないこと、否定的なことを常に考えていますと、意識はそうした否定的な要因によって歪曲され、卑小化されてしまうのです。そしてそのとき、人は自分自身に自信が持てずに萎縮してしまうでしょう。 心にネガティヴな思念を抱えていますと、その反動はいつか必ず現れ出てきます。なぜなら、意識は基本的に悪いものを受け入れることができないからです。私たちを成り立たせている奥底の自我本性とは純粋意識であり、そしてその純粋意識とは神の分け御霊です。神の分け御霊である神性意識は、善なるものしか受け入れません。私たちの意識は、我、自己、我欲という、表層の自我意識によって曇らされていますが、意識は基本的に神の分け御霊である神性意識ですから、悪しき想念は一切受け入れられないのです。我欲の思いで彩られた表層の意識が、自我にとっては喜ばしくない事柄や経験を切り捨てようとしたり、あるいは嫌だと思う経験から何も学ぼうとせず、それから逃げていたりしても、最終的にそれらのことに直面し、そしてそれらを乗り越えなければならないようになっているのです。人生におけるすべての経験は、偶然に起こるのではなく、起こるべくして起きています。一切の経験は、その人にとって必要な経験なのです。ですから、どんなに辛い経験であろうと、悲しい経験であろうと、人はあらゆる経験から生の本質を学ばなければならないようになっているのです。そして意識は、喜怒哀楽をもたらす一切の経験からその精髄だけを受け入れて、人間としての意識進化を果たしていくのです。 この世界では、良いことばかりを考える良心的な人も多く存在するでしょうし、また、悪いことを考えがちな人間も存在することでしょう。どちらであっても、人は心の中で考えたことに基づいて人生に処していきます。換言して、人間の生とは、その人間の思考そのものであるとも言えます。そして、思考がプラス思考であるかマイナス思考であるかが、その人の人生が勝利の生となるか、敗北の生となるかを決める重要な要因となるでしょう。プラス思考で物事に対処する人は、心の奥底の純粋意識を傷つけることはないでしょうが、マイナス思考、すわなちどのようなことでも否定的に考えがちな人は、自分では知らないこととは言いながら、自己の意識を傷つけていることになるでしょう。人間の心の深奥の純粋意識は、神そのものと言ってもよい神性意識ですから、神の質に合わないものは受け入れられず、否定的な想念は心の中で澱んでしまうのです。澱んで汚れたものは、いつか御霊によって排斥されて自浄作用を起こします。そのとき、その人は大いに苦しむことになるでしょう。早い段階で、嫌だと思う経験から学ぶべきことを学んで、その果を自己の奥底の神性意識に供物として捧げればよかったでしょうに、嫌だと思うこと、苦しいと思うことから学ぼうとせず、それらに直面して乗り越えようとしなかったことが、大きく膨らんだ“つけ”となって、後になってその人にのしかかってくるのです。如何なる経験であっても、人は自分が得た経験から何かを学ばなければなりません。経験から何かを学んで、人はそれを精神的に成長するための養分としなければならないのです。人間が得る一切の経験は、人間にとっての意識進化のための滋養分なのです。 私たちの奥底の意識は、純粋意識という神の分け御霊ですから、私たちは常に正しいことのみを考えなくてはなりません。決して邪まな思いを心の中に入れてはならないのです。従って、仏陀が唱導した八正道は、意識というものの偉大さに気づいた人なら、即刻に守るべき戒律であることが理解できることでしょう。正しいことのみを見、正しいことのみを聞き、正しいことのみを話し、正しいことのみを考えること、常に自己の奥底の意識に対して正しいことのみを滋養分として与え、決して悪いものを与えないようにすることが大切なのです。人生でどのような事が起ころうとも、そのことに対して決して否定的に考えないこと、物事を常に肯定的に明るく捉えて前向きであること、そのように生きている人々にとって、生は精神的な成長の可能性を秘めた豊かなものとなることでしょう。 |