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精神世界へようこそ・クンダリニーとシッディ

 クンダリニーという言葉は、ヨガに興味を持って、その方面の本を読んだ人以外の日本人には馴染みのない言葉だろうと思います。宗教や霊性に興味を持つ人ならば、必然的にクンダリニーについての知識を獲得しなければならないと思いますが、日本の神道や仏教界においてクンダリニーの事柄は如何に教示されているのか、私には皆目解らず、自分の浅学を恥ずかしく思います。私が日本仏教に関する一般的な本を読んだかぎりでは、クンダリニーに関することを著述している書物に接することはありませんでした。クンダリニーは密教的な事柄ですから、密教に関心を持たなかった私には、その知識に触れる機会がなかったのかもしれません。

 私がクンダリニーという言葉を知ったのは、私がヨガの本を読むようになってからのことでした。ヨガに関する書物を読むと、クンダリニーとかチャクラとか心霊的な用語に触れるようになり、必然的にシッディ(心霊力)に関心を持たざるを得なくなります。シッディとは、現代人の言葉でいう超能力のことであり、霊視、霊聴、念力などを含む心霊の力を示す総称です。ですから、クンダリニー、チャクラ、シッディ、アストラル体等々、それらはいったい如何なるものなのかと興味をかきたてられるのは、宗教に関心を抱く者ならば至極当然のことでしょう。そして、それらの事柄に対する興味を満たすべく、ヨガの本を読みあさるようになるのですが、心霊的な事柄に多く関わっているのはラージャ・ヨガとハタ・ヨガであり、また、日本で出版されているヨガの本はハタ・ヨガのものが多いようですから、日本人は概してヨガとは、身体ポーズと呼吸法に重点を置いているハタ・ヨガだけがヨガであると思い込んでしまいがちのようです。

 ヨガは英語で、“Union with God”と訳されており、日本語で、“神との合一”、あるいは“神意識実現”というような意味でしょう。その神意識実現を達成するための手段として、大別して四種のヨガの技法があり、それらはカルマ・ヨガ、バクティ・ヨガ、ジュニャーナ・ヨガ、ラージャ・ヨガと呼ばれます。それぞれのヨガの意味を簡約しますと、カルマ・ヨガは、私利私欲を離れた仕事や労働というカルマ(行為)、奉仕の行を通して神を悟ることであり、バクティ・ヨガは、ひたすら神を念じ、神に奉仕するという、真摯な帰依献身に徹して神と合一することであり、ジュニャーナ・ヨガは叡智のヨガと呼ばれ、智慧を以って生の在り方を思惟し尽すことによって神を認識すること、ラージャ・ヨガは感覚統御と心作用止滅という方便を以って神意識を実現することです。おもに身体ポーズを実修するハタ・ヨガは、しなやかな身体を作ることと呼吸法をマスターすることによって、クンダリニー覚醒をもくろむヨガの一行法です。

 ところで人間は、アンナマヤ・コーシャ(食物鞘、肉体)、プラーナマヤ・コーシャ(気息鞘、生命体)、マノマヤ・コーシャ(精神鞘)、ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ(知性鞘)、アーナンダマヤ・コーシャ(至福鞘、原因体)という、五つの鞘(コーシャ)で構成されていると、ヨガの文献は言います。魂本体であるアーナンダマヤ・コーシャ(至福鞘、原因体)を核にしてアストラル体が成り立っており、そしてそのアストラル体は、プラーナマヤ・コーシャ(気息鞘、生命体)とマノマヤ・コーシャ(精神鞘)とヴィジュニャーナマヤ・コーシャ(知性鞘)で構成されています。最も外側のアンナマヤ・コーシャ(食物鞘)が肉体です。アストラル体は肉体と重なり合っており、クンダリニーはアストラル体に属するものです。また、肉体の尾骨に当たるところのアストラル体上にムーラーダーラ・チャクラがあって、クンダリニーは、このムーラーダーラ・チャクラに蛇がとぐろを巻いた形で潜在していると言われています。このムーラーダーラ・チャクラから頭頂のサハスラーラ・チャクラに向かってスシュムナーと呼ばれるアストラル神経が通じており、このスシュムナーに沿って、尾骨に当たる基底から頭頂までの間に、ムーラーダーラとサハスラーラを含めて全部で七つのチャクラがあるとも言われています。普通の一般人においては、クンダリニーは休眠した状態で潜在しているのですが、特殊な行法や瞑想などによってこのクンダリニーが覚醒させられると、蛇の力とも呼ばれるクンダリニーが基底のムーラーダーラ・チャクラから頭頂のサハスラーラ・チャクラまでをスシュムナーを通って上昇するのです。クンダリニーが活性化されて、そしてクンダリニーがそれぞれのチャクラを通って頭頂のサハスラーラまで上昇すると、シッディを得られるということがヨガの書物において言及されています。

 日本の若者たちがヨガの本を読んで、シッディ(心霊力)に興味を持ち、クンダリニーを覚醒させようと、グルと呼ばれる人の指示を受けて、その種の行法に対して何の懸念も待たずに実修し始めるようです。しかしながら、クンダリニーを覚醒させようとすることは非常に無謀な行為であり、そしてまた、クンダリニー覚醒は、宗教に興味を持ち始めた初学者が安直に実修できるような事柄ではありません。宗教の初学者であるならば、まず初めに、そもそもクンダリニーとはいったい何であるのか、心霊とは何であるのか、真正な宗教と心霊の違いは何であるのか、宗教全体を俯瞰してクンダリニーや心霊はどのように位置づけられるのかというような、霊性に関わる諸々の事柄をしっかりと学ばなければならないはずです。それらを学んだあとで、心霊に関してより一層の知識を求めるというのであれば、初学者が心霊を探求する上でつきまとう危険は回避できるかもしれませんが、超能力を得たいためだけの、無知で無防備な若者がクンダリニーを活性化させようと思って、無鉄砲にその種の修行を始めると、あとで後悔しても後悔しきれないほどの災難を身に背負うことになってしまうでしょう。

 宗教の根本である倫理道徳をないがしろにして、心の純化を果たさないうちから、心霊力を得ようとしてクンダリニー覚醒を試みると、大変な災厄を自分の身に引き寄せてしまうであろうと、真実のヨガを指導する高潔な霊性指導者たちは、心霊力獲得のみに専心する修行者に諫言を呈するのです。と言うのは、自我意識が純化されないまま、そして生半可な知識でクンダリニーを活性化させてしまうと、最悪の場合には命を落としたり、気が触れて廃人になったりするからです。日本ではヨガの知識が充分に流布していませんし、また、ヨガの奥深い知識を充全に体現したグル(ヨガ指導者)が皆無と言えるほどの状況です。そのような状況の中で、宗教やヨガに興味を持つ若者が、宗教の目的とはクンダリニーを覚醒させて心霊力を得ることであると誤解したり、また、グルが正しい人であるかどうかを見抜けずに、黒魔術の陥穽に陥ったりして、自分自身を正しい霊性の道からそらしてしまうことが往々にしてあるようです。

 そもそもなぜ、若者たちはサイキ(超能力、心霊力)に興味を持つのでしょうか。なぜなら、彼らは超能力を持つことによって、自分は他者よりも優れているという優越感を持つことができ、そして世間で超能力をみせびらかすことで富と名声をも手に入れて、自分を世の中で誇示できると短絡的に考えるからです。単に知識を詰め込むだけの教育を受けて、物事に対して深く考える力を持たず、独創性に乏しい画一的な人間が、科学万能という物質文化が飽和状態になった現代社会において、科学にとっては未知の領域であるサイキという心霊の分野が自分を顕示できる場所であると思うのであり、そして心霊力の達人になれば富と名声の一挙両得であると、彼らは考えるのです。それゆえ、彼らは宗教の名のもとに、心霊力を得ることだけに没頭してしまうのです。そのような彼らに宗教と心霊の違いなど解ろうはずがありません。彼らは真実の宗教とは何であるのかを知りませんし、普遍霊性と心霊の違いさえ解ってはいないのです。

 宗教とは、心霊力の獲得を意味するものではありません。心霊の力は、霊性の道を正しく歩んで、神意識実現を果たしたときに付随的に生じるものです。自我意識を滅して、純粋意識に達しなければ、如何に苛酷な修行を為そうと、数多の本を読んで頭の中に霊性に関わる知識をどれほど多く詰め込もうと、宗教が言うところの究極目標に到達したとは言えません。宗教の目的とは、純粋意識の達成なのであって、心霊力の獲得ではありません。純粋意識という言葉に宗教の本質が表れているのであり、その言葉の意味を完全に理解するならば、純粋意識を達成するための修行の方法も、少しばかり頭を働かせれば自ずと解ろうというものでしょう。純粋意識とは自我を滅却することであり、これに対して心霊力を獲得することを眼目にして修行することは、宗教の本質とは逆行して自我を拡大させることになってしまいます。従って、心霊力は真実の宗教に対して障害になるものと言われる所以は、この理由によるのです。

 ヨガを行ずる種々様々な団体があります。それらの中には、健康増進を眼目にしてヨガを行じる団体や、霊性求道を標榜して心霊力獲得の行法を修しているヨガ団体もあるでしょう。しかし、霊性求道を標榜しているヨガの団体においては、それらすべての団体が真正な宗教を行じていると思ってはならないでしょう。それらの団体に属する人々が如何なる修行をしようと、如何なるグルの指導に従おうと、それはそれで結構なことではありますが、心霊力獲得を眼目とするようなヨガ団体は宗教の正道からそれていると、私は考えるのです。霊力追求はオカルトと言うのであって、真実の宗教とは区別して理解すべきでしょう。

 真正なヨガ、真実の宗教とは、あくまで神意識実現であって、純粋意識達成です。純粋意識を達成するための修行とは、根本土台に倫理道徳を据えて、高潔な人格になるように自己を練磨したのちに、ヨガの主要な四つの技法を統合した修行によって、自我を滅して純粋意識に到達することでしょう。それが真正な宗教が意図するものです。霊性の道を歩むほどに、そして正しく霊性に関わるほどに、心霊力を得たいと思う心の願望は色褪せてきます。と言うのは、純粋意識とは何であるのかを知ったとき、可視なるものと不可視なるもののすべてを肯定する境界(きょうがい)に達し、そして次には不可視なるものを超えて上昇する過程が始まるからです。人間が持つ潜在能力という心霊を超えて、意識ははるかに遠く進化の道程に沿って進まなければなりません。心霊に拘泥するかぎり、人間はこの現象界に留まって、普遍進化である上昇の過程から自ら自己を排除してしまうことになるのです。

 私は、心霊を探求することを非難しているわけではありません。けれども、人がいやしくも霊性の道を歩もうと志すならば、宗教の本質とは何かということくらいは充分に理解した上で、そして相当に慎重な心構えで広漠な心霊領域に踏み込むべきであると私は思うのです。宗教の道は奥深く幽玄ですから、求道者は慎重な上にも慎重になって、切り立った断崖の道を心を集中して一歩ずつ歩を進めるようにして、霊性という峻険な高峰を登らなければならないことを心すべきでしょう。

 

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