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精神世界へようこそ・豚と貪欲人々にとって、<豚>のイメージはあまり良いものではないようです。生物の豚は、人間のための食肉となり、人間にとってはとても役立つ動物なのですが、でもどういう訳か、人間は豚に対して良いイメージを持っていないようです。 人間関係で軋轢が生じたようなとき、人は、敵対する相手を侮辱するような言葉を発して、相手に対する自分の嫌悪や苛立ちや怒りの感情を露わにする場合があります。人が嫌悪や怒りを吐露して、他者を罵倒する言葉には種々様々なものがあります。しかし、人が敵対する相手に対して侮蔑の感情を強く表したいと思うときには、人は往々にして、『豚!』という言葉を相手に対して投げつけるようです。人が他者に対して、『豚!』という言葉を吐くとき、その言葉には強い侮蔑の意味が込められているようです。 人々は、太った人に対する陰口を言うときも、<豚>という言葉を使うようです。この場合の、<豚>という言葉の引用は、豚は基本的に丸々と肥えているものですから、肥えているという外面的な様相をなぞらえて、<豚>という言葉を用いるのでしょう。 動物の豚に対するイメージは、洋の東西を問わず、芳しくないようです。西洋でも東洋でも、人が<豚>という言葉を他者に対して吐くとき、そこには軽蔑や揶揄や愚弄の意味が込められているようです。どうして<豚>という言葉には侮蔑的な意味が込められているのでしょうか。そしてその言葉は、その言葉を言う人にも、またその言葉を投げつけられた人にも、共にネガティヴな感情を引き起こすのはなぜでしょうか。動物の豚そのものには非難されるべき資質は何もないのに、どうして人は他者を侮蔑したり、愚弄したりするような場合に、<豚>という言葉を用いるのでしょうか。 <豚に真珠>という諺があり、これは新約聖書からの出典で、その内容を抜粋すると、『聖なるものを犬に与えてはならない。また、豚の前に真珠を投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くであろうから』というものです。この文章の意味は、人間にとっては神聖で価値あるものであっても、犬や豚などの畜生にはその価値が解らず、人間にとってのみ価値あるものを犬や豚に与えたとしたら、それは彼らにとっては役に立たず邪魔なものであるから、犬や豚は怒って、与えた人に対して危害を加えるであろう、ということでしょう。 聖書の中のこの説話に包含される真実の意味は、『この物質世界で、豚のように無知で貪欲な生き方をしている者たちに対して、霊性の道を歩む人間に示された神からの啓示や教えを提示してはならない。彼らは霊性に対してまだ目が開かれていないので、その聖なる教えの価値が解らず、教えを説かれても、彼らには益することがなく、むしろ邪魔なものなので、彼らはその教えを嘲弄し、教えを説いた人に対して危害を加えるであろう』ということだと思います。 この説話の中で、犬や豚は人間より劣る畜生として描かれています。犬や豚は動物ですから、それは当然なのですが、犬ばかりでなく豚を登場させたことに、この説話の真実の意図が隠されているように思えます。すなわち、豚は何でも貪欲に食べる雑食性の動物であるゆえに、人間の目から見れば、豚は汚らわしく侮蔑の対象であったのでしょう。それで、この物質世界で金や物という財物を貪欲に追い求める人間を貪欲な豚になぞらえているのだと思います。 新約聖書の中で、貪欲な人間を豚になぞらえて描いているのですから、それよりもずっと以前の太古の大昔から、豚は汚らわしい動物として、人間は豚を侮蔑の対象として考えていたのでしょう。従って、太古の昔から人類の意識の中に、豚についてのネガティヴなイメージが刷り込まれてしまっていますから、いつの時代においても、人は、豚という言葉に対してネガティヴな感情を引き起こすのでしょう。 しかしながら、人が肥えているからということだけで、外形的な様相を豚になぞらえて、人を軽蔑の対象にしてはならないことです。外形的な様相を以って、人を豚になぞらえて揶揄したり愚弄したりすることは、食肉や食用油や皮革など、人間にとって有用な物資となることで人間に役立つ豚に対しても、また太った人に対しても失礼なことでしょう。豚は、その生物的な特性上、どのような餌でも満腹になるまで食べるだけのことであり、動物の豚に対してそのことを咎める訳にはいきません。人間も同様に、遺伝子という、肉体に秘められた特性があるのですから、一概に肥えた人をよく食べる人として非難する訳にはいかないでしょう。 本当に非難されるべき資質は、人間の<無知>と<貪欲>という、この二つのネガティヴな資質です。霊性を蔑(ないがし)ろにして、精神進化に対する向上心を持たず、物質に惑わされ、財物を溜め込むことに貪欲な、強度な物質主義を体現した人間が、聖書の中で、霊性の教えを説かれる必要のない下等な人間として語られているのです。 日本の現代社会では、聖書の中の、無知で貪欲な豚を地でいくような、強欲な人間が多く存在しているようです。彼らは金のみに執着し、そして金を溜め込み、物質的に満たされた裕福な暮らしを達成することだけが人生の目的であると思い込んでいるのでしょう。彼らは、人間の生には偉大な目的があることを知らず、現象の物質界に惑わされて、物質界だけで役立つ財物に心奪われているのです。 物質主義者たちには、人間の本質というものが解っていないようです。人間は、意識である霊と、物質で構成される肉体を持って、この物質界で生きています。人間の本質は霊であって、肉体ではありません。肉体は、人間がこの物質界で生きるために必要なものとして、人間は、物質で成り立つ肉体をまとっているだけのことです。もし本当に人間が肉体だけであるならば、人が死んで肉体がなくなれば、人間は完全に消滅してしまうことになり、霊という言葉が生じる蓋然性はありません。霊という実体があって、人々は、それが目には見えなくても意識という霊の実体であることを心(意識)の中で知っているからこそ、霊という言葉が人々によって用いられているのです。 人間は肉と霊によって成り立つということは絶対的な真理です。霊が肉眼には見えないということで、物質主義者たちは霊性を顧慮することができないのでしょうが、物質だけに捕らわれているかぎり、人は精神的に霊的に自己を高めることができないでしょう。そのような人々は、説話の中の犬や豚と同じように無知で貪欲な者として、神性へと至る意識進化の道から退けられてしまい、霊性において着実に進化向上している人々よりもはるかに遅れをとってしまうことでしょう。
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