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精神世界へようこそ・ブランド志向世の中はブランド物で溢れかえっています。男も女も老いも若きもブランド品で身を固めて、これ見よがしに街を闊歩しています。貧乏人の私にはブランド物が買えませんし、身に着けたことがありませんので、ブランド物について良いとか悪いとかの意見を述べる資格さえないように思われますが、世の中のブランド崇拝の風潮をみると、何か変だと感じて、そんな社会に対して皮肉の一つも言いたくなるのです。とにかく、私はブランド物なんて一つも持っていませんので、有名ブランド品と言われるようなそれぞれの物品についてあげつらうことはできません。しかし、私が常々感じていることは、何々のブランドということだけで、品物の値段が法外に高いという印象を持つことです。衣服は勿論のこと、靴やバッグや腕時計などのアクセサリーに至るまで、金額的には数万円から数百万円までとさまざまですが、私にすれば、衣服やアクセサリーになぜそれほどの高額の金を払わなければならないのかと非常に不思議に思うのです。 ハンドバッグにしても、そのバッグが、作りがしっかりとした上質の皮製のもので、デザインも独創的であるというようなものであれば、五、六万円の値段がついたとしても理解できるのですが、何の変哲もない、薄っぺらなナイロン製のバッグなのに、それが有名ブランド品というだけで、同じような値段がついて売られたりしています。どうしてこのような法外な値段がつくのか、私には全く訳が解らず、摩訶不思議に思えるのです。腕時計に至っては、クォーツ電池で作動するちっぽけな金属製品なのに、有名ブランドというだけで、数十万円から数百万という金額であったりします。ダイアモンドをちりばめてあるような宝飾時計でもないのに、どうして腕時計に百万円前後の値段がつくのでしょうか。自動車が一台買えるほどの価格です。小さな腕時計と大人四人が乗れるコンパクト・カーがほぼ同額なんて、どう考えても私には理不尽に感じられます。原価数万円に過ぎない、実用品である腕時計一つに、数百万円という多額な金を出すというのは、私にはドブに金を捨てるのと同じようなものだと思われるのです。 大金持ちの人で、高額なブランド物を何の不自由もなく買える人は買えばよいでしょうし、それに対して私が文句を言う筋合いのものでもなく、格別に不都合なことではありません。しかし、私が非常に問題であると思うのは、女子高校生たちがブランド品を買い求める風潮です。彼女たちは親によって養われている分際なのに、どうして高額なブランド品を身につける必要があるのでしょうか。親さえ買えないような物を身につけて得々としている破廉恥な小娘たち。それを買い与える親もどうかと思いますが、親が買い与えることができない場合は、どうやって彼女たちはブランド品を手に入れているのでしょうか。新聞やテレビなどのメディアで、社会問題として取り上げられている援助交際やらキャバクラやら、その他諸々の、性を金銭的な取引にするような、いかがわしい手段によって金を得ている女子高校生たちもずいぶんと多く存在するようです。 ブランド物が欲しいがために、肉体を売って金を得ることに対して、全く罪意識を持たず、恥や後ろめたさを少しも感じない、十五、六歳の少女たちが日本の社会に多く出現していることに、私は非常に大きな衝撃を受けます。金を得たいために不特定多数の男たちと性交渉を持ち、その結果として自分の身体に何か異変が生じれば、産婦人科や性病科の看板を掲げる病院を気軽に訪れる現代の女子高校生たち。昔、金で肉体を売る女を売女(ばいた)と言いました。売女、売春婦、淫売婦、どれもおぞましい言葉ですが、本来なら花も恥らうような、爽やかで初々しい乙女たちであるはずの女子高校生たちが売春婦に成り下がっているのです。たかがブランド品を買う金欲しさのために身を売る日本の女子高校生の有様に、世も末の感を持つのは私一人だけではないでしょう。 そのような非行に走る少女たちは、女子高校生全体に占めるパーセントでみれば、勿論数少ない数字なのでしょうが、それにしても現実にそのような女子高校生たちが日本の社会に多く現れ出ているのです。そして現在では、髪を染めることや化粧をすることなどは、ごく普通の高校生でも当たり前のことになっているようです。遊び好きな少女たちは、プチ家出などと称して家に帰らず、遊興に溺れて深夜の繁華街を徘徊したり、金のためには夜をひさぐようなことまでするのです。そのような不健全な生活をしている自分の娘を見て、親は娘に注意できないのでしょうか。母親も娘と同様にブランド品にうつつを抜かし、父親も仕事にかまけて家庭を顧みないような、そんな親たちであれば、子供に意見を言う資格も気概もないのでしょう。学校の教師にしても同様で、子供たちを教え導いて立派な人間に教育するという、教師としての責任感と聖職意識などさらさら持たず、すっかりサラリーマン根性を身につけて、子供たちに知識を詰め込むだけが自分の仕事であると心得て、子供たちの情操に関わる精神教育には決して踏み込まないのです。親や教師の権威は地に堕ちて、親たちから放任されて放縦に育った若者たちが、これまで良識と規範を保ってきた日本の社会を、たがが外れたような退廃的な社会に変えつつあるようです。 そもそもブランド志向の人間とは、有名な商品を身につけて外面的に飾り立てることで、精神的には空っぽな自分をあたかも大きな人間であるかのように見せかけようとする、本来的に欺瞞の心を持つ人間であるのでしょう。空疎な自己を覆い隠すためにブランドという虚名に力を借りて、他者に対して自分を大きく見せかけているのであり、<虎の威を借る狐>です。自己の内面が充実していれば、装飾品などで身を飾らなくても、その人の品格が自ずと現れ出るものです。自分自身に自信を持っている人間は、ブランド商品などで外面を飾らなくても、威風堂々と世の中を自由闊達に生きていくものです。自分に自信を持てない者たちが、金や物を多く持つことによって、精神的に空疎な自分を覆い隠して、周囲の人々と、そして自分自身をもごまかして生きているのです。金やブランド品を追い求めて、人生を刹那的に生きる人々は、自己を精神的に成長させることもなく、中身がない空っぽな人間のままで、大切な一生を空しく終わらせてしまうことでしょう。 外面を飾るより、どうして自分の内面を磨かないのでしょうか。自己の内面を磨いて、智慧ある人間に成長すれば、多くの人を自分に引き寄せることができますし、また、自分も自信を持って生きられるのです。自分に自信を持って生きている人は美しいものです。そのような人は、外面など飾らなくても、内面の美しさで人々を魅了するのです。精神性を成長させることに対して、金は必要としません。まだ若くても、人生を大切に思い、自己の精神的な成長を願う人は、学業を終えた後も常に学ぶ姿勢を保ち、精神の糧となる本を読んだり、智慧ある人々の話を注意深く聞いて、自分の知らないことをいろいろと教えてもらったり、人格修養に努めながら、人と和を保って生きています。そのような謙虚な生き方をしていれば、自然に智慧と品格が身にそなわってくるようになるのです。智慧が身にそなわるほどに、生きることの意義や目的が明確に理解できるようになり、ますます精神的に進歩向上することに喜びを見出して、物質には全く捕らわれなくなるでしょう。物質に捕らわれなくなると言っても、正しい道を歩んでいる人は、物質的に不足することは決してありませんから、心配する必要はないのです。一方、金に走る物欲的な人間は、常に金のことばかりを考えて、金の奴隷となり、正しい智慧を身につけることができずに、最終的に、物質的にも精神的にも破綻して、悲惨な人生に陥ってしまうことでしょう。 現代の女子高校生たちや若者たちが物欲的で刹那的に生きているのは、親たちが即物的に生きてきたことの結果として、親の生き方が子供に反映しているのです。中高年世代である親たちが現代の若者たちの生き方を批判することはできないでしょう。若者たちの退廃的な生き方を批判する前に、私たち中高年の親たちがまず自分たちのこれまでの生き方を省みて、その即物的な生き方に問題があったことを理解しないかぎり、子供たちの物質志向の生き方も改まるはずはないのです。日本人が精神性をおろそかにして、物欲的な生き方でブランド志向に走っているかぎり、日本の社会は堕落して、そして日本は確実に凋落していくことでしょう。
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