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精神世界へようこそ・愛について男と女は愛し合い、結婚して子供を儲けます。夫婦の愛と親子の愛があります。基本的に愛に変わりはありませんが、人々は愛の本質を誤解しているように私には思えます。愛とは抽象的な観念であり、愛の本質を把握するのは誰にとっても非常に難しいことでしょう。母親が我が子を深く愛するのは生物的本能であり、生来的に植えつけられた感情であるように思えます。日本の母親の、子供に対する深い愛情は非常に尊いのですが、ともすれば、それが盲目的、あるいは利己的な自己愛である場合が多いように思うのは私一人だけではないでしょう。教育ママと呼ばれるような母親たち、彼女たちが自分の子供を愛しているのは理解できるのですが、しかし彼女たちは、子供がまだ小さいうちから教育を押しつけて、そして子供に対して自分が望むような人間になることを強要している利己的な女たちにすぎないように私には思えます。我が子の将来を考えてのことであると言いながら、それは実際には自分の思うがままに子供を支配しようとする母親のエゴという自己愛にすぎないのではないでしょうか。我が子を本当に愛しているのであれば、自分の思いを子供に押しつけたりせずに、ただ子供をあるがままに見つめて、そして子供の成長を慈愛に満ちた目で見守っていくだけのことでしょう。子供は成長しながら、その子供が持つ天分を徐々に開いていくものです。理性的な母親であれば、子供の成長を見守り、そして徐々に開かれていく子供の天分に対して、親が干渉してその芽を摘み取るようなことはせず、それが大きく開花できるように見守るだけでしょう。 自己愛を愛と誤解している教育ママたちは、子供を通して自分の願望を遂げようとしている我欲の強い母親たちであり、そして自分という自我を子供に移入して、心理的に子供と同体になるのです。換言してそれは、母親が子供の人格を認めずに、子供を我が物にしようとすることです。それゆえ、子供が成人しても、親離れ子離れができない、日本独特の親子(母子)関係が生じるのです。子供は母親を通して生まれてきましたが、子供には子供の人格が生まれながらにそなわっていますので、その人格に母親が干渉することは許されることではないでしょう。親子の間には血縁という決して切れない絆が存在しますが、親子ではあっても人格はそれぞれに異なるものです。親子という神聖な血縁によって子供が父親と母親を通して生まれてきましたが、父や母という親は、子供を授けられて親になれたことに感謝するだけのことであり、子供を親の所有物にすることは断じて許されることではありません。親は子供を持つことによって、子供を育てていく過程において我が子に対する純粋な愛情を身を以って体現することができるのであり、そのことに対して親は子供を授けられたことに感謝するのです。子供に対する親の純粋な愛情とは、無私なる愛であり、子供が成長して一人の立派な成人になることに喜びを感じるだけのものでしょう。そこに親のエゴが入り込む余地は全くありません。親のエゴが色濃く反映した親子関係であれば、親は子供を心理的に私物化しているのであり、子供が成人しても、親は子供を手放せず、また子供も親から離脱することができない状況に至るのです。それゆえ、親離れ子離れできない親子関係には必ず親のエゴが介在しているものです。 しかし、こうした親のエゴという自己愛は、ブーメランのように、いずれその応報が子供から跳ね返ってくることになります。親の身勝手な自己愛を子供に押しつけて、意識的であれ、無意識的であれ、自分の思いどおりに子供を操るようなことをすれば、子供は親の呪縛から離れることができずに、成人しても精神的に未発達な人間になって、そして種々様々な問題を引き起こして親を苦しめることになるでしょう。子供が引き起こす問題の尻拭いをさせられて迷惑であると、親が愚痴を言うことはできません。なぜなら、親が子供を自立させずに、心理的に子供を私物化しているのですから、子供の心の中で常に庇護者、あるいは呪縛者であり続ける親に、自分では解決できない問題を親に持ち込むのは子供にとっては当然のことだからです。いろいろな問題を引き起こしたり、また、問題に対して適切に対処できないような未熟な子供を育てたのは親自身です。従って、子供が問題を引き起こして、親を苦しめるということは、子供を育てていく過程において、親の、子供に対する愛情や育て方に根本的な問題があったのであり、親は自分が犯した誤りに気づかなければならないのです。親の、子供に対する愛情や育て方が正しいものであれば、子供が問題を引き起こして、その累が親に及ぶというようなことは基本的にはありえないことでしょう。 子供に対する親の純粋な愛があれば、心の美しい子供に育つことでしょう。子供に対して純粋な愛を持つとは少しも難しいことではなく、親のエゴで子供に干渉することなく、ただ親の自然な慈愛のこもった眼差しで子供の成長を見守っていればよいことでしょう。親の慈愛は、子供が生まれて親となった瞬間から親に自然にそなわるものであり、それは子供を我が物と考えるような親の自己愛とは断じて違います。子供に対する親の慈愛は、無防備な子供を慈しんで、子供が無事であるように見守るだけのものです。子供は親から常に見守られているかどうかを敏感に感じ取るものであり、親の慈愛で見守られている子供は素直で心の優しい若者に成長することでしょう。子供が立派な人間に成長するかどうかは、結局のところ、親がエゴを滅している人であるかどうかによると言っても過言ではないでしょう。しかし、エゴを完全に滅した人間はこの世界には存在しないに等しいゆえに、我欲の少ない親、利己的ではない親と言い換えてもよいでしょう。たとえ、無学であっても、利己的ではない親に育てられた子供は幸福です。それとは反対に、高学歴であっても、金満家であっても、利己的な親に育てられた子供は哀れです。なぜなら、子供は親の生き様を写す鏡であり、そして親の生き方を踏襲するものだからです。 夫婦の愛においても同じことが言えるでしょう。我欲という自己愛が強い男と女が結婚すれば、やがて結婚生活に破綻が生じるでしょう。夫婦の愛は、夫と妻がそれぞれの我欲をなくして、そして互いに伴侶を思いやって成り立つものですから、自分本位なやり方を相手に押しつけるのはエゴそのものにすぎず、伴侶に受け入れてもらえずに反発されてしまうのは当然のことでしょう。<結婚は忍耐>という言葉がありますが、それはすなわち、自分の我を折って相手を立てるということであり、平穏な結婚生活を続けるには互いに自我を滅しなければ成り立たないという意味でしょう。従って、親子の愛においても、夫婦の愛においても、真実の愛は自己愛を滅したところに存在するものです。純粋な愛は相手に何も求めず、与えるだけのものであり、与えることができることに感謝するだけのことです。ただ与えるのが愛だと言って、相手が求めてもいないのに、愛を押しつけるようなことをすれば、それはやはり強度の自己愛という自我であり、エゴにすぎません。親が子供に対して自分の思いを押しつけたりせずに、ただ、慈愛の眼差しで子供の無事と健やかな成長を優しく見守っていること、それが純粋な愛の在り方として最も近いものでしょう。 それゆえ、身を以って愛を体現するのは、誰にとっても非常に難しいことです。なぜなら、人間は皆、本質的に自分を第一に愛しく思うものだからです。そしてまた、自我を完全に滅した人がいると仮定するならば、そのような人はこの世の中に存在することはできずに空無の中に消え去ってしまうことでしょう。と言うのは、私たちは自我を持つゆえに、人間としてこの世界に存在するからです。けれども、強い自我である我欲、利己主義は決して望ましいものではありません。ですから、宗教では、自我を滅することを説くのです。瞑想してサマーディに入ると、自分が無く、清澄な意識だけがあるという状態に至ります。そしてそのときに、無限なる意識そのものが愛であると感得するのです。一度それを体得すれば、愛は普遍であることに常に気づいていられるようになるでしょう。それゆえ、真実の愛とは、自我意識を滅したところの純粋意識なのであり、意識そのものが愛なのです。 人を好きになるのは、自分の精神波動が相手の精神波動に引きつけられるだけのことであり、それを愛と呼ぶことはできません。男女が惹かれあう恋愛は、互いの精神波動が近いために引きつけあうのです。けれども、恋をして、心を許しあっている二人が互いに見つめあい、そして自分を無にして相手に委ねているとき、そこには真実の愛があります。夫婦も同様であり、夫と妻が互いに信頼しあって、そして伴侶を完全に自己の心の中に受け入れているとき、そこには美しい夫婦愛があります。そのような人々の愛の絆は強く、そしてその絆は決して壊れず、永遠に続くことでしょう。我欲、自己愛というエゴが強い人々は、それゆえ、結婚生活においても、社会生活においても、円満な人間関係を作り出すことができずに、人間関係において軋轢が生じがちであるのも当然なことでしょう。自己愛を愛と誤解している利己的な人々が真実の愛を知ることは難しいことでしょう。愛は自分という自我がなくなったとき、そのとき、愛の中にいる自分を見出すのです。自分から愛を求めることはできず、自分を捨てたとき、愛の大海原の中に溶けている自分を発見するのです。それゆえ、普遍なる真実の愛は触れられることなく、一切を包摂しているのです。
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