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精神世界へようこそ・カルマの法則(作用と反作用)作用と反作用は中学時代に習う運動の法則です。ある一つの物体に力をおよぼせば、力を加えた物体に対して、力を加えられた物体から等量の力が跳ね返ってくるという、誰でも知っている簡単な法則です。作用と反作用という運動の法則は物理法則ですが、この法則は精神世界においても作用しているのです。この現象世界において作用と反作用という法則が厳然と、そして正確に働いているのですが、人々は日常生活の慌しさの中で、この法則の、人間に対する重大な関わりを見過ごしているようです。すなわち、人が為した行為が精神的なものであろうと、物理的なものであろうと、行為という作用において、その等量の反作用が行為を為した人に必ず跳ね返ってくるということです。インドではこれをカルマ(行為)と言い、日本の仏教では業(ごう)と言っています。物理の世界では作用に対して即時に反作用が生じますが、精神界においては、為した行為に対してその反作用が即時に跳ね返ってこないように見えますので、人々はこの厳然たる法則の存在を看過してしまうようです。けれども、人が為した行為に対して、厳密に等量の反作用が、作用を引き起こしたその人にいつか必ず返ってくるのです。 人は、誰でもが自分自身をなにものにも替えがたいほど最も愛しく思うものです。人間は自分をなによりも愛しく大切に思いますから、他の人のことを考えず、自分本位に物事を考えて、自分の思いどおりにしようとするのです。多くの人間は世の中で利己的に生きていると言ってもよいでしょう。けれども、カルマの法則の厳密な働きを考え、そしてそれをしっかりと理解した人ならば、人は利己的に生きることはできませんし、また、しないでしょう。なぜなら、犯罪と言われるような悪いことをしたり、他人に迷惑をかけるような自分勝手な生き方をしていますと、そうした利己的な生き方の結果である反動がいつか必ず自分に返ってくることを知っているからです。それは聖書の中で言われているように、<まいた種から生じる結果は、その種をまいた人間が刈り取らなければならない>ことなのです。現世でその報いを受けることがないならば、カルマの応報を受けることが適切な時期において、それは必ずやってくるのです。その適切な時期とは、次の生、あるいはその次の生という、未来の生においてであるかもしれません。けれど、為した行為に対する反作用という応報は、行為を為した人のところへいつか必ず返ってきます。為した行為が善行であれば、善果を得るでしょうし、悪行であれば、悪い応報を受けるでしょう。それが因果応報というカルマの法則です。人を虐待すれば、いつか自分が虐待され、人を殺せば、いつか自分が殺されるのであり、人を誹謗すれば、いつか自分も人から謗(そし)られ、人に親切にすれば、自分も人から親切にもてなされ、困窮にある人を助ければ、いつか自分が苦境にあるときに人によって助けられるのです。 現行の刑法において罪の科刑が如何に定められているのかを私は知りませんが、けれど、霊性において絶対に確かなことがあります。殺人という重大犯罪において、自分の手をかけずに、手下の者を使って人殺しを為せば、命じられて殺人を犯した者よりも、殺人を企図し、手下の者にそれを実行させた人間のほうが罪は重いのです。なぜなら、自分が心の中に持つ殺人の意図を他者に代行させて実行したという理由によって、自分は手を下さなかったと言い抜けても、殺人そのものにあたる罪のほかに、他者に対して重大な大罪を犯すように強制したことの罪が加えられるからです。神は、行為そのものよりも、その行為が為される心の意図を見るのであって、霊の世界では心そのものが秤にかけられるのです。ですから、仮に国家の刑法において罪を逃れることができたとしても、神の理法のもとでは犯した罪が厳正に裁かれるのであり、自分が犯した罪から逃れることは決してできないのです。自分は手を下さずとも手下を使って多くの人々を害したり、苦しめたりした者は本当に哀れです。その人間が犯した罪が幾人もの人を殺めるような極悪な罪業であるならば、その罪業の償いを果たすために、その人間はどれほど多くの償いの生を経巡らなければならないことでしょうか。 これは殺人ばかりではなく、どのような罪業についても言えることでしょう。権力を掌握した人間が部下を使って自分の利益を不当に得ることを企んで、それを実行することも、前述の例と同様で、霊性においては手下の者よりも自分自身がより大きな罪を犯したことになり、償いもそれに比例して大きなものとなります。人の肉体を傷つけるような傷害罪ばかりでなく、収賄や贈賄という汚職犯罪もまた、重大犯罪の範疇に入るものです。汚職犯罪は直接的には人を強奪するものではありませんが、私利私欲のために職権を悪用して不正な利得を得るのは、強盗と同じように、否、それ以上に大罪なのです。その理由は、職権を悪用して収賄によって得た利得は、本来なら多くの人が分配して受けられるはずの権益を、贈収賄行為を為した当該者のみで強奪したことになるからです。 汚職犯罪では、直接的に不利益をこうむる人間が表面的には存在していないように見えますから、人は汚職を軽く考えがちですが、職権を悪用して不正な利得を得るのは充分に重罪です。汚職という構図を仔細に考察すれば、不利益をこうむる人間は確かに存在するのであり、それは国民全体であったり、あるいは贈収賄事件にかかわる特定の企業であったりするでしょう。企業の被害とは、そこで働く全従業員の被害という意味です。企業が或る一部の背任者によって不利益をこうむったのならば、そこに働く全従業員がその被害者になりえることでしょう。なぜなら、その特定の企業が持つ利益は、その利益を受けるために労力を提供した従業員に還元されるはずのものだったからです。命令指揮下で働く人々の利益を奪うようなことがあれば、それはそのような事態を引き起こした者の背任行為であり、道義的にも社会的にも許されることではないでしょう。ですから、汚職が起きやすい環境にある人々、特に政治家や官僚や財界人などの、命令指揮権を掌中にしている人々は、その職責の重大さをよく認識して、また物事の道理を弁えて慎重に職務を果たさなければならないでしょう。上司と呼ばれ、人の上に立ち、自己の指揮下にある人々に命令を下して、組織を動かす職責を任じられている人々は皆、常に慎重に、そして廉潔にその職務を遂行しなければならないでしょう。と言うのは、指導者と呼ばれるような、人の上に立つ人々は、職権を掌中に収めるので、我欲や利己主義を滅して身を正しく修めた人でないかぎり、命令を受けて職務を遂行する人々よりも、職権悪用によって自己を貶め、堕落する可能性が非常に大きいからです。 神の絶対的な理法において罪と断ぜられる罪業は、その償いを必ずいつかは果たさなければならないのです。なぜなら、罪を犯したその人自身が自我本性の奥底に罪意識を抱えていますので、懺悔と罪の償いによってその罪意識が浄化されなければならないからです。ですから、自分が果たすべき罪の償いがあるならば、それから逃げきることは絶対に不可能なのです。因果応報は絶対的な法則であり、真理です。なんぴともこの法則から逃れることはできません。それが物質界で言われる作用と反作用の法則であり、精神界におけるカルマ(行為)による因果応報という、宇宙の絶対法則です。 人が作用と反作用の法則の重大さを熟考するならば、人は日常において自分自身をよく律する者となるでしょう。我が身を愛しく思うのであれば、当然ながら自分の為した行為によって不利益が自分にふりかかってこないように、自己の行ないに対して常に注意深く、道を踏み外すことがないように正しい道をしっかりと歩んでいくことでしょう。我欲を張らずに、人々と協調しながら人との和を保ち、自己を修養し、そして神へと至る意識進化の道を進んでいくのです。それが宗教と呼ばれる生の哲学です。 |