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精神世界へようこそ・精霊界と天界寿命が尽きて人間に死が訪れても、人間が消滅することはありません。人間は不用となった重い肉体を脱ぎ捨てて、霊魂となって霊界に赴くだけのことです。けれども、此岸(しがん)で生きている私たち肉体人間にとっては、彼岸(ひがん)である霊界とはいったいどのようなところなのかを想像することもできないのが本当のところでしょう。しかし実際には、私たち生者もまた、この世にありながらも霊界と関わっているのです。現代の物理学だけを信奉して、不可視の世界を否定する人々は、死を以って人間は消滅すると考えるでしょうが、人間は肉体だけで成り立っているものではありません。 インドのヨガ関連の書物やウパニシャッド注釈書などを読みますと、人間は五つの層で成り立っていることが言及されています。それらは、アーナンダマヤ・コーシャ(至福鞘、原因体)、ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ(知性鞘)、マノマヤ・コーシャ(精神鞘)、プラーナマヤ・コーシャ(気息鞘)、アンナマヤ・コーシャ(食物鞘、肉体)と呼ばれる五つの層です。コーシャとは鞘を意味し、刀剣を収める鞘のように、実体である魂を覆うような媒体なので、それぞれの層をコーシャと呼びます。アーナンダマヤ・コーシャは、魂そのものを覆う鞘であり、アーナンダとは至福を意味します。また、それは原因体とも呼ばれます。なぜなら、それは人間という原因そのものであり、因体そのものだからです。原因体である魂が物質現象界に下生するために、意識波動の稠密性が順次に粗雑になっていくヴィジュニャーナマヤ・コーシャ(知性鞘)、マノマヤ・コーシャ(精神鞘)、プラーナマヤ・コーシャ(気息鞘)を順次にまとって、そして最後にアンナマヤ・コーシャ(食物鞘)という肉体をまとうのです。従って、人間が死を迎えて肉体を脱ぎ捨てたとき、人間は当然のことながら魂として存続しているのであり、そして身にまとっている鞘(体)を下生のときとは逆の順に脱ぎ捨てて、最終的に霊が本来的に属するところである霊界の至福領域へと至るようです。 肉体の内部にあり、そして肉体と重なり合っているプラーナマヤ・コーシャ(気息鞘)とマノマヤ・コーシャ(精神鞘)とヴィジュニャーナマヤ・コーシャ(知性鞘)の三つの層が、いわゆる人間そのものである霊体を表しているアストラル体(精妙体)です。しかし、厳密に言えば、人間が死を迎えて肉体を脱ぎ捨てたとき、プラーナマヤ・コーシャ(気息鞘、生命体)も日数を経ずして瓦解してしまいますから、アーナンダマヤ・コーシャ(至福鞘、因体)を覆っているヴィジュニャーナマヤ・コーシャ(知性鞘)とマノマヤ・コーシャ(精神鞘)をアストラル体と言うべきかもしれません。プラーナマヤ・コーシャは、気息鞘、あるいは生命体と呼ばれるものであり、人間が死ぬと、人間の肉体生を維持していた生命気は必要なくなって、気息鞘は瓦解してしまうのです。 死によって肉体を脱ぎ捨てた魂が向かうところは、仏教では中有(ちゅうう)と呼ばれるアストラル界[精霊(しょうりょう)界]です。死後の人間は、アストラル体となって精霊界に住して、そこで意識を浄化して、より高次の領域である天界へと上昇するようです。肉体とアストラル体は重なり合っているように、この物質現象界もアストラル界と重なり合っています。と言うよりも、アストラル質量によって構成されるアストラル体が肉体に浸透しているように、物質現象界に対してもアストラル質量が浸透していると言ったほうがより正確な言い方なのかもしれません。アストラル界は、この地上の写し絵であり、死者が生前に住んでいたところとほとんど変わりがありません。ですから、死者となった人がアストラル界に移行しても、自分が死んでいるとは思わないかもしれません。と言うのは、死者は自分が死の門を通り抜けたにも関わらず、生前の肉体と同じ形態を持って存在し、しかも自分の周囲の環境も従前とほとんど変わりがないからです。 死者は生前と同じ状態で存在するのですから、死者にとって変化したことは何もありません。死者は生前の生活状態と変わりない状態で存在するのですが、物質現象界に生きる肉体人間のほうからは、肉体を脱ぎ捨ててアストラル体で存在する死者を肉眼で見ることができないのです。夜、人が眠って夢見状態にあるとき、人は肉体から抜け出てアストラル界と接触しているのです。だからと言って、朝目覚めたときに覚えている夢のすべてが、アストラル界で経験した事柄のすべてを表しているわけではないでしょう。夢のほとんどは、覚醒時に外界から受けた印象から、肉体脳が作り出したとりとめない表象群やその断片にすぎないものでしょう。また、夢の幾つかがアストラル界での体験であったとしても、覚醒時意識と夢見状態における意識の次元が異なる所為で、その内容を肉体脳に反映させることができずに脈絡のない夢となってしまうのかもしれません。しかしながら、<清澄夢>と言われるような、非常にはっきりとした夢で、その内容をしっかりと覚えているような夢は確実にアストラル界と接触した上での体験と言えるのではないでしょうか。また、人が深く眠って夢も見ていないような熟睡状態にあるとき、人はそのとき、さらに高次の意識状態にあると言われています。けれど人間は、アストラル界および天界という、高次の意識状態に入ったことを、朝目覚めたときに覚えてはいないのです。覚醒状態と夢を見ている状態と深く熟睡している状態では、意識状態がそれぞれに異なるからです。そこで、瞑想が意図する真の目的とは、意識の漸次なる拡大を図って、これらの意識状態の違いを打ち破ることのようです。すなわち、覚醒時意識を保ったままでアストラル領域、また、それよりもより高次の意識界へ参入することです。しかしながら、覚醒時意識を保持したままで異なる意識状態を通過することは、現在の人間の意識レベルにおいてはほぼ不可能に近いことなのではないでしょうか。それにまた、霊的な行を積むことだけで、アストラル領域に参入することができたとしても、心の純化を果たしていない人間は、自己の意識波動と同じレベルのアストラル界の冥(くら)い領域に引き寄せられておぞましい体験をするだけのことでしょう。 この世に生を享けることは、神によって万人に等しく与えられた意識の進化と成長の機会です。そのような貴重な機会であるのに、利己的な現象我の意思によって、何ものにも替えがたい貴重な生を自ら絶ちきって、進化の機会を生かさなかったことは、神の意思に背くことであり、重大な罪になるのではないでしょうか。人間はこの世に生を享けたからには、どんなに苛酷で苦難に満ちた生であっても絶対に生き抜かなければなりません。と言うのは、人間は苛酷な試練や艱難辛苦によってのみ、精神的に成長し強くなれるものだからです。物質現象界で苛酷な生を歩む人々の中には、より高次の精神的な成長を果たすために、自ら望んで苛酷な生を選択した人々もいるでしょうし、また、過去生で罪を犯したがために、カルマの法則によって今生では辛く厳しい人生を歩まなければならない人もいるかもしれません。けれど、自分が苛酷な境遇にあるからといって、人は神に対して不平不満を言うことはできません。と言うのは、現在の自分の在りようは、実際には、神、あるいは誰かによって定められたものでもなく、自ら選び取った境遇だからです。苛酷な試練や苦難を多く与えられたと思う人は、むしろ神によって深く愛されていることを自覚するべきでしょう。なぜなら、人は、乗り越えられない苦難や試練を与えられることは決してなく、その人が厳しい試練や困難を乗り越えられるほどの精神的な強さを潜在的に身にそなえているからこそ、多くの困難が試練として与えられるからです。神は、人間が艱難辛苦を乗り越えて精神的に強くなり、霊的に向上して、神性意識を開示することを願っておられるのです。この現世で生きる人間の境遇は実に種々様々です。けれども、生ある万物にとって人間生を得ることは、海中に落とした一粒の真珠を見つけるのと同じほどに得がたいことなのですから、どのような境遇や環境に置かれようとも、人は与えられた生を全うしなければならないのです。 人間がこの世で生きることにおいて最も大切なことは、人は道徳に則って人倫の道を踏み外さないように生きていくことでしょう。正しく生きることによって、霊性において一歩ずつ確実に進歩向上していくことが、人間がより幸福になることができ、より神性へと近づくことができる、平易にして、唯一安全な道なのです。従って、宗教は倫理道徳を説きます。宗教の基本は倫理道徳です。顕教の観点から言えば、宗教とは少しも難しいものではなく、道徳の規範に則って正しく生きることであり、そして通常であれば自然進化の道にある生を、自ら進んで自己の意識進化を促進することにすぎないのです。 |