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精神世界へようこそ・神と人間科学が高度に発達した現代社会で、不可視なる神の存在そのものに関して懐疑的な人も多く存在することでしょう。けれど一方で、神の存在や霊魂の不滅を唱道する諸々の宗教が過去幾千年となく存続してきたことや、物質至上主義的な現代でも、精神性と霊性に拠りどころを求めて生きている人々も多く存在することを考えあわせてみれば、私たちの肉眼には見えないとは言いながらも、神の存在を頭から否定しさることはできないでしょう。神は不可視ですから、ある分、想像によって神を推量しなければならず、人間にとって、神の概念を統一化することが困難になるのです。神とはいったいどのようなものか、と人に問えば、人それぞれに神についての観念が表明されることでしょう。人々は皆、想像力を以って漠然と神について考えているのであり、神を明確に定義することができないのです。もちろん、心霊力を開発したり、あるいは自然に霊能が身について、神霊と交信できる人々もおり、そのような人は、自分が実際に霊交している体験によって、神というものの存在を明確に定義できるかもしれません。 しかし、霊能力を持たない普通の人々は概して、神とは仏教でいう諸仏、諸菩薩、天人衆などの神々、キリスト教で言及される諸天使、神道でいう八百万(やおよろず)の神々を思い浮かべるのではないでしょうか。人間が想像によってであれ、思惟によってであれ、思いつくものは何であろうとも、この世に、あるいはこの世を超えて存在しているのです。人間が考えることができないもの、想像できないものは、初めから存在していないのです。人間が神を推量できるなら、神は存在するのです。従って、如来や菩薩、天使、諸々の神々は、私たちの目には見えずとも、この地上に、そしてまた、地上世界を超えて存在しているのです。諸々の神々を超えて唯一絶対神が存在するでしょうが、人間にとって究極の唯一絶対神とは如何なるものかを推量することはできないでしょう。神とは純粋意識であるということまでは体得できても、人間の思量を超えている、宇宙を統べる究極的な唯一絶対神とは如何なるものかを思惟したり想像したりすることは、現在の人間の意識レベルでは不可能なことなのではないでしょうか。 宇宙は、私たちが思い描くこともできないほどの悠久の時を超えて存在するのでしょうが、幾千万億劫と呼ばれるような宇宙のはるかな時間経過の中で、人間種がこの地上に現れ出て現在の人間として存在するようになったのは、まだほんのわずかな時間でしかすぎないのでしょう。インドのプラーナ(古伝説)と呼ばれる聖典には、宇宙の創造と破壊が周期的に繰り返されているという記載があるようですが、私たち人間には、完全なる宇宙とはいったいどのようなものなのかを想像することさえもできないのです。従って、私たち人間にとって測り知れない宇宙、もしくはその測り知れない宇宙さえも超えたものを統率する究極絶対神とは如何なるものなのかということについては、私たちには考える手立てさえもありません。そこで、私たちが人間より高次の存在として推量できるのは、私たち人間種が現れ出たよりも、億劫と言えるようなはるか以前にすでに宇宙に存在していて、より高度な、より完全な意識の段階に到達したであろう、如来や天使と言われる諸々の神性存在のことです。 神と人間は基本的に種が違うようです。人間によって神と呼ばれ、私たちが崇める人格神的な要素を持つ神性存在は、人間がこの地上に誕生するはるか以前から神として存在していたでしょうし、人間が創造される以前にすでに高度な進化を遂げた存在であったでしょう。キリスト教でいう天使は背中に大きな羽を持つ神性存在であり、インドのプラーナなどの神話で言及されているデーヴァは<光輝くもの>という意味を持つ神性存在です。仏教でも、デーヴァをもとにして天部、天人衆という観念があります。それらの神性存在は、私たち人間と外面的には幾分かは似ているようではあっても、やはり根本的に人間とは違うのではないでしょうか。人間が、人間としてようやくこの地上での生を始めたばかりの揺籃期にあったとき、人間よりはるかに進歩していた神性存在は、進化の前段階にあった人間の進歩を促進するために、種々様々な方法で人間を助けたのでしょう。ですから、インドの神話では、神により近いリシ(聖仙)と呼ばれるような覚者を介して、宗教の根本となる、霊の在り方や宇宙の成り立ちや人間が霊的に進歩すべき道筋を人間に説いているのでしょう。人間にまだ智慧が明けそめず、人間が動物のようであった遥かな遥かな太古の大昔に、神や天人と呼ばれる神性存在が人間に化身してリシとなり、そして人間に進化の道筋を指し示したのではないでしょうか。億劫かけて人間は進化し、そして最終的に神性存在になるのでしょうが、天使のように背中に羽を持つことはないでしょう。人間はあくまで人間であり、進化して神的な存在になっても、人間として進化した神性存在であり、デーヴァや天使と同種になるのではないでしょう。人間から神々と呼ばれる天使やデーヴァには、それぞれの進化の道があり、私たち人間には、人間に定められた進化の道筋があるのではないでしょうか。 人間は遠大な劫期をかけて創造されたのでしょう。人間は如何にして創造されたのかは、私たちには知る由もありませんが、究極絶対神、あるいは宇宙意思と呼べるようなものによって人間は創造されたのでしょう。私たち人間を産み出したものが、いったい如何なるものなのかは私たちには解りませんが、私たち人間を在らしめようと意図した何ものかがあるのに違いありません。それを宇宙意思と呼ぶか、究極の絶対神と呼ぶかは、人それぞれでしょうが、私たち人間は、人間を超えたものによって斯く在らしめられているのです。現代人である私たちが科学的に考証している人間の歴史など、宇宙の億劫という測り知れない時の流れに比べればほんの一瞬に過ぎず、人間存在というかすかな曙光がこの地上に現れたのは、幾百、幾千、幾万劫というような、私たちが想像もできないほどの過去の時であったのでしょう。 インドの宗教典籍において、悠久の劫期をかけて神意識が物質界の最下層である鉱物界にまで降りくだり、それから上昇に転じて植物界と動物界を経て、そして人間界に至り、さらに上昇して神界へ至るのだとする説が伝承されています。私たちは今、人間としてこの地上に存在しますが、個なる意識を持つ人間になるまでに、私たちは、鉱物界、植物界、動物界という異なるそれぞれの界を経て進化を続けてきたのでしょう。人間は、動物に比べれば高度に進化した存在ではありますが、私たちが神と呼び、崇める存在よりは、意識においてはるかに未発達な存在であるでしょう。人間段階は進化の終局ではなく、果てしない進化の道をさらに上昇して、人間はついには超人である神性存在にならなければならないのです。ところで、仏教では、欲界、色界、無色界について言及しています。欲界とは、欲によってつき動かされる人間界を指し、色界とは、形あるもの、すなわち形態の世界を表し、欲を離れてはいますが、まだ形を有する神々の世界を言うのでしょう。無色界とは、形態も離れた神聖意識の世界であり、私たち人間にとっては想像もおよばない領域です。私たちには神界を超えては想像することもできませんし、また、想像する必要もないことでしょう。なぜなら、私たちが神界へと進むことさえ、無限と言えるほどの劫期を必要とするでしょうから。私たち人間が進化して神界へと上昇したとき、物質宇宙ばかりでなく、より深遠な宇宙というものを知ることができるかもしれません。人間にとって、宇宙についての知識とは、現在の科学で知りうるかぎりの、外部現象的に顕れ出ている物質宇宙に関する知識と、宗教において知りうるかぎりの内在的な宇宙についての知識しか得ることはできません。だからと言って、科学と宗教によって人間が持てる宇宙についての知識だけで、無限である宇宙が知られるものではないでしょう。人間が進化して神と言われるような存在となり、高次の神性意識を達成したときに、宇宙をより深く知ることができるのではないでしょうか。 人間という、現在の意識レベルにある私たちが為すべきこととは、それゆえ、さらなる高次の意識状態へと向かって進歩することでしょう。人間として存在することがすべてではなく、そして人間存在で終わりというのではなく、意識は永遠に進化していくものであるということ、そしてそのこと自体が宇宙大霊の顕れであることを心に刻みこんで、人間としての地上の生をより善いものにすることを常に心がけるべきでしょう。宇宙の万物が進化の過程にあり、如何なる人間であっても自然進化の道程にあるのは事実です。けれども、霊性の偉大さを認識できるならば、自己の霊性においてごくわずかではあっても進歩向上するように心がけることは重要なことではないでしょうか。生き方において、意識的に自己の生をより神性に近づけている人々は、自然進化の道にあって物質に繋縛されている人々よりも、はるかに早く神性存在へと至ることでしょう。
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