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精神世界へようこそ・菩薩の道菩薩とは、悟りを求めて修行する人のことを指します。仏教における菩薩は、普賢、文殊、日光、月光、虚空蔵、観世音、勢至、弥勒、地蔵などの菩薩行を完成した諸菩薩を指していますが、そのような菩薩と呼ばれる存在は、絶対的な悟りを求めて億劫というほどの悠久の時を自己完成のための修行に費やし、そして菩薩行を完遂して、衆生に崇められる神的存在になったのでしょう。仏教の諸菩薩は今も尚、仏となる修行の道程にあって、再び悠久の劫期を経て、最終的に仏へと至るのだろうと思われます。仏典では、無数の菩薩と仏が存在すると言いますが、その言説の根拠は、生きとし生ける有情の一切のものの内には仏性が宿っていることを指しているのです。ですから、私たち凡夫も菩薩の機根を有しているのであり、菩薩行を行じていずれは菩薩と呼ばれる神的存在となり、そして仏へと至るのです。 菩薩行は、悟りを求めて修行する人々が実践する特別なものではなく、高次の意識界にまだ目が見開かれていない私たち凡夫も実際には菩薩行を日々実践しているのです。現実には、生ある一切のものが菩薩行を実践しているのですが、その多くは菩薩行を行じていることも知らず、物質界という虚妄の中で迷妄の生を送っているのです。従って、菩薩行とは、言葉を変えて、万物にとっての自然進化の道と言ってもよいでしょう。けれどもこれは、生および存在の在り方を俯瞰したときに、進化という観点から言えることであり、菩薩行が字義的に意図する本来的な意味からでは不正確な言い方であるかもしれません。菩薩行が意味するものは、貪欲・瞋恚(しんい、怒り)・愚痴という三毒を滅して、これとは反対の布施・慈悲・智慧という三善根を積んで神意識に近づき、そして他者のために自己の生を役立てていくことであると言えるでしょう。菩薩行の意味を知って、自利・利他の行を自ら進んで果たす人々は、それゆえ、菩薩行の道に己の地歩を踏み固めて進歩向上の道を歩んでいる、意識において進化した人々であると言えるのではないでしょうか。 古今東西のこれまでの人類史の中で、自利・利他の行、特に他者に対してあまねく功徳を施す利他行を重んじる菩薩行を実践して、その身に神の普遍智を体現して、菩薩と呼ばれるほどの崇高な徳性と神性を持ち得た人は、この地上に数多く生まれ出たことでしょうし、未来においても続々と生まれ出ることでしょう。この世に名を残すことなく、無名で終わったとしても、神聖なる徳性と普遍智を体現して菩薩となった方々は、無数と言えるほど存在したでしょう。神性意識を持つほどの意識進化を果たしたそのような菩薩方は、地上での生を終えると、その後はどこへ向かうのでしょうか。人間生を終えて、この物質界から上昇して高次の意識界に進んだ菩薩方もおられるでしょうし、あるいは、物質現象界の迷妄の生に捕らわれ続けている衆生を救済するために、再びこの現象世界に受肉して人間生を生きる菩薩方もおられることでしょう。高度な意識進化を果たしても、神性の高みに達した崇高な魂は、意識の奥底に菩提心を抱いていますから、人類の意識を高揚するために、いくたびも人間生に受肉して物質現象界に回帰するのではないでしょうか。それこそが、菩薩と呼ばれる神性存在の真義でもあるでしょう。 菩薩の道は自利と利他の修行です。悟りを得て安心立命の境地に達しても、等覚(仏)の境地を他者の利益になるように敷衍しなければ、それは小乗の声聞・縁覚の悟りであって、称揚に値しません。利他のために自利を求め、そして利他行に徹するのが大乗の菩薩行でしょう。人は、菩薩行を行じることは非常に難しいことであると思っているかもしれません。けれど、実際には、意識的であれ、無意識的であれ、菩薩行を実践している人は、この世に数多く存在するものです。菩薩行を行じることは、大それたことでも、難しいことでもなく、それは基本的に他者に対する慈愛の心を持っていることを言うのです。人が自己愛を滅して利己的でなく、そして他者に対する思いやりという慈愛の心を抱いて、常に愛をあまねく周囲に放射して生きるならば、その人は菩薩行を行じていると言えるでしょう。自分の周囲にいる人々をよく観察してみると、柔和で常に他人に対して思いやりのある態度を示す心温かい人々が存外に多く存在しているものではないでしょうか。そのような人々は、自分では知らずして菩薩行を行じている人たちでしょう。そのような心優しい人々の中にあって、自分が生かされ、人々から多くの恩恵を受けていることに気づいたならば、自分もまた、菩薩の道に足を置いていると認じてもよいのではないでしょうか。けれども、現世という、私たちに対して与えられたこの生において、日々の生活において、大乗の菩薩という観念が私たちの心によぎるものならば、菩薩の在り方というものを心に思い描いて私たちの生をそれに重ね合わせて、より積極的に自利と利他の行を日々実践して生きることにこそ、生の意義がより深化され、そして自分がこの世に生まれ出て存在しているという、自己の存在理由が明確に理解されるのではないでしょうか。 自己が利するように生きるのではなく、自分が為す行為や心遣いによって他の人々が利益を受けてより多くの喜びを感じるような生き方をしていると、人々の喜びの中に自己の存在の意義が明らかになってきて、人々の喜びが自己の喜びとなり、そしてその人にとって、生きること自体が大きな喜びに変わるのです。生そのものが喜びに変われば、その人自身の存在が祝福されたものとなり、神意識により近づいたことになります。物質主義に汚染された現代社会で、自己の利益ばかりを求める利己主義者が多く存在することは事実でしょう。そして、そのような利己的な人間は、自分第一と考えて、自分が益することを意識的にも無意識的にも画策して、他者を利用搾取してしまうのです。利己的な人間の心には自己愛という我欲しか存在せず、しかも自己利益のために他者を利用搾取してしまうので、そのような人間の心からは神の本質である普遍愛がさらに枯渇してしまうのです。従って、利己的な人間の生は空しく、神意識からはるかに隔たった、愛なく、喜びのない生になってしまうのは当然のことでしょう。 物質に心引かれることなく、霊性の偉大さを理解して、人々と調和しながら生きていく柔和な人々は幸いです。周囲の人々に対して感謝の思いと誠実な心で接し、そして常に心安らかに生きている人々は、この地上で最も祝福された人々です。自己の良心に従って行動し、さまざまな人々の中にあって常に心が清澄でいられる人は、<菩薩の道>という王道を行く人でしょう。霊界においてはるかな上層に位置するであろう神界に住まう菩薩や天使は、私たち人間が考えることもできないような億劫の太古に神々となられた方々なのでしょう。けれども、苦渋に満ちた物質現象界の中で迷妄の生を生きる私たち人間も、いずれは神意識を達成して、束縛の輪廻転生の輪をほどいて、天使や菩薩や天人たちが住まう清らかな神界へと至ることができるのではないでしょうか。自然進化の道にある私たちが、すでに天使や菩薩となられている方々と同等の高次の意識へ至るには、それこそ悠久の劫期を経なければならないのかもしれませんが、それでも意識的に菩薩行を行じて意識進化をめざして生きるならば、未来のいずれかの生において輪廻転生の束縛の輪をほどき、神々が住まう神界領域の最下層の意識領域にでも至ることができるかもしれません。 宗教という生の哲学において卓越した業績と足跡を残した古今東西の偉人たちは、私たち凡夫である衆生に絶対的な真理へと至る道を示し、そして物質の繋縛を離れた高次意識界へと昇られていったのでしょう。天使や菩薩と呼ばれるような神性存在になったとしても尚、偉大なる魂は究極の神性意識に至るべく、永遠の進化の道程にあることでしょう。この物質現象界の中で肉体生を維持することだけで汲々とし、現世のみが唯一であると思っている凡夫衆愚にとっては、不可視の死後の生や天上界の天人や菩薩たちのことなど全く心に浮かばず、想像することさえできないのかもしれませんが、人間にとっては輪廻転生があり、そして生が連綿と続くことは、不世出の宗教的天才や聖人がこの地上にその時代時代に応じて生まれ出て、生における絶対的な真理を指し示したことに思いをめぐらし、そして聖人たちの生き方とその思索を演繹すれば、容易に理解できるはずです。精神性と霊性が忘れさられ、貪欲と利己主義がはびこる堕落した現代社会の中で、生の意義を問い、自己の存在理由を明らかにしたいと願う真摯な人々は、それゆえ、菩薩行を行じて、物質に繋縛される現象世界という虚妄の世界から脱却して、実在界である真実の高次意識界へと上昇することを心からの願いとするべきでしょう。
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