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精神世界へようこそ・六道輪廻仏教では六道輪廻を説きます。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六つの迷界を指し、そして六道輪廻とは、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることを言います。人間である私たちの寿命が尽きて赴くところは、生前において私たちが為したカルマ(行為)、すなわち善行、悪行によって決まるようです。大罪を犯したり、悪事を重ねた人間が霊界における地獄や餓鬼や修羅の領域に落ち、凡庸なる生を終えた人間は人間界という領域に赴き、より多くの善行を為した人は天界という領域へと昇って、そして再び物理現象界での人間としての生を享けるまでの間、それぞれの霊性領域で迷妄の生を送るのでしょう。人間とは意識という霊であって、肉体ではありませんから、人間が肉体生を終えて赴く先は、現世において個々の人間が培った意識状態に基づくところの霊性領域であるのは当然のことでしょう。すなわち、人間が物欲や憎悪などによって強盗や殺人のような大罪を犯せば、その人間の奥底の本性意識が悪によって穢され、そしてまた、その人間の表層の自我意識そのものが邪悪な傾向を帯びていますから、悪しき人間は自分のその邪悪な意識の顕れどおりに、悪人たちが住まう地獄や阿修羅界のような、意識が非常に低くて冥(くら)い領域界に引き寄せられるのです。善行を為した人が死後に向かうところは善なる霊たちが集うところであり、また、生前において強欲であった人間がその死後に向かうところは欲深な者たちが寄り集まった領域界であるのも至極もっともな道理です。 現世における死を迎えて、肉体を脱ぎ捨てて意識そのものとなった霊は、自己の波動と同様な意識波動が発せられるところへ引き寄せられて行きます。<類は友を呼ぶ>という格言どうりに、死者は自己の意識波動と調和する意識を有する霊たちが集まったところへと引き寄せられるのです。現世において人間は肉体をまとい、そして物理の法則が支配する現象世界に住んでいますので、人間が心に抱く想念や思考は外界の物質によって遮られて、他者に直接的には伝わらないのですが、物理作用を受けない死後の世界においては、人間は肉体を持たずに意識そのものになっていますから、心の中の思考想念が言葉によらずとも他者に直接的に伝わってしまうのも当然のことでしょう。この現象世界では物質が意識波動を遮りますから、意識波動の稠密性がそれぞれに異なる人間たちが寄り集まって共存することは可能ですが、人間が肉体を落として意識そのものになる死後の世界では、意識レベルの異なる者たちが和合することは決してあり得ないことでしょう。従って、死後の世界において、仏教で言うところの六道という観念が生じたのでしょうし、そしてまた、それは非常に合理的な観念であるように思えます。 この世界では、悪人であろうと善人であろうと表面的には同じ人間として、すべての人間が集合共存していますが、あの世では悪人は悪人同士、善人は善人同士で寄り集まり、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界などという、意識の稠密性がそれぞれに異なる領域界が多種多様に形成されていることでしょう。もし、霊が肉体を持たないで意識そのものとして存在するだけならば、霊は同一の意識レベルに留まってしまい、その意識レベルから抜け出て上昇することが可能ではないために、霊はこの物理現象界に生まれ出て種々様々な意識レベルにある人々の中に交わり、そして人間が霊性において進化していくことの重要性を悟り、自己を霊的に成長させることができる機会を得て意識進化を果たしていくのでしょう。従って、人間がこの世に生まれ出ることの本当の意義とは、意識進化の機会を与えてもらうことなのです。 宗教家や知者賢者が人々に、悪人と交わらず、善人を友とするようにと説くのももっともなことです。その理由は、<朱に交われば赤くなる>ように、悪人と交われば自分も悪に染まって、やがては罪を犯すようになり、自己の意識を穢し貶めてしまうからです。善き人々と交われば、その人々から発する善き想念波動によって良い影響を受け、そして自分も善良な人間になることができて、意識進化の道程に自己をしっかりと沿わせることが可能になるでしょう。聖賢や善人と交わることで、人の霊的進化は長足の進歩が望めるでしょうが、悪人と交わるならば霊的に退行してしまうことになり、意識の穢れによって、現象世界および死後の世界での苛酷で苦しい生を幾度も繰り返すことになってしまうでしょう。 この世界には、精神的に高度に発達して物事の道理に明るく智慧が深い人もいれば、精神的に未発達で道理にうとくて愚鈍な人もいます。愛に満ち溢れて優しく善良な人々もいれば、利己主義で邪悪な性質を有する悪しき人々も多々存在します。誠にこの世は玉石混淆の物質界です。たとえ、世に卓絶した聖人や傑出した宗教家や深い智慧を有する賢者が、人々に言を尽くして生の真理を指し示したとしても、迷妄の中で現世の生を楽しみ、うつつを抜かしている多くの凡庸な衆生に、その意が明確に理解されることは稀有なことと言い切ることさえできるでしょう。それゆえ、この現象世界は、清澄な意識を有して真理に近づきつつある幸運な人々と、物事の道理に冥くて不透明な意識を持つ衆愚が寄り集まって共存している状態で悠久に続いていくこととなり、信心深い人々が天国の様相と重ね合わせて思い描くような、悪が滅せられて正義と愛だけが満ちているというような理想世界に変容することは決してあり得ないことでしょう。そしてまた、それは理に適ったことでもあり、現象世界とはすべての人間にとって、<修行の場>ですから、それぞれの人間が有する意識波動の稠密性と清濁が縒り合わさった混淆状態の物理界であって当然であろうと思われます。 仏教でいう六道輪廻とは、結局のところ、それぞれの人間が自己の意識によって創り出す世界のことであり、現世における肉体生が終わって、その人間が死後に創り出す意識世界のことなのです。心に罪意識を抱える人間は、罪悪感で自分自身を責めさいなむ者たちが寄り集まった低次の下層意識界に引き寄せられるでしょうし、神に帰依して善行を積む人は信仰心の篤い心魂清浄な人々が集まる意識の高次領域へと引き寄せられることでしょう。強欲な者は貪欲な者たちが集まるところへと引き寄せられ、正直で善良なる人は同様な意識波動を持つ善霊たちが集うところへと向かうでしょう。ですから、死後の世界とは全くその人間の現世の生き方に関わっているのです。現世における意識状態から、死後、その人間の意識状態が急激に変わることなど断じてあり得ないことです。邪悪な性向を有する者は、死後、何物にも遮られることなく邪悪な意識がそのまま顕れ出るだけのことであり、善良なる者もまた、そのまま善良な意識が明確に顕れ出るだけのことです。死後に自分が向かう領域とは、それゆえ、自分自身で決めることなのでしょう。 現代人からすれば、六道輪廻とは仏教の古色蒼然とした教説のように思えるかもしれませんが、仏法は基本的に正しい教えであり、その典拠において合理的な根拠が含まれているのです。究極真理というものは、幾千幾万年を経たとしても絶対的に変わるものではないでしょうから、仏陀が説いた教えの核心は二千五百年という長い時を経ても変わることなく、合理的な精神で真実を探求する現代の人々にも容易に受け入れられることでしょう。物質主義者たちが蔓延して、精神的な価値観が見失われ、生死という、人間にとって最も重要な生の哲学が等閑(なおざり)にされているような現代の退廃的な風潮の中、心ある人や生の意義を求めて真摯に生きている人々は仏法に触れ、そしてその教えの核心を了得するように努めたら、自然法爾で仏法の中で生きていることになるでしょう。 |