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精神世界へようこそ・良心と向上心人は皆、良心と向上心を持っています。この良心と向上心は魂の本質を表しているものであり、そしてこの良心と向上心こそが、人間を精神的に、霊的に上昇させようと働きかける、人間の裡(うち)なる力でしょう。神の分け御霊である魂は、当然ながら神の本質である善性そのものです。神、神性とは、善、真実、愛であり、私たち人間のみならず、この世に存在する一切のものは、その本性において神の本質を受け継いでいます。 私たち人間には良心と向上心という神の資質が埋め込まれていますが、この良心と向上心は、私たち人間だけに顕れ出ている善なる資質でしょう。と言うのは、意識の進化状態において私たち人間種より下位にある動物界の生物には、この二つの資質が顕れ出ているとは思えないからです。この善なる資質は、弱肉強食の動物界ではまだ未顕現の資質なのでしょう。でも、だからと言って、動物たちにこの善なる資質が全く顕れ出ていないと言い切ることはできません。群れとなって生きる諸々の動物の中には、群れのボスになるという形で階級闘争を示すものがあります。一群の中で秀でるというのも、或る意味で向上心と言えなくもありません。動物の世界は弱肉強食の世界ですから、群れの中で勝ち抜かなければならないという意味で、それは闘争心、競争心なのでしょうが、闘争心、競争心は、ネガティヴではありますが、それもまた向上心の範疇に入るものだと思います。けれども、私たち人間には、精神的に成長しようとするポジティヴな向上心があり、そして、良心という、これまた動物にはまだ顕現していないであろう、神の善なる資質があります。 私たち人間は常に上を目指して生きています。上を目指すとは、上昇することであり、それは現在の自分自身の在り方や状況、また自分が置かれている環境や生活状態なども含めて、包括的な意味で、自分が今立脚する現状況よりもより善いものへと上昇しようとすることです。物質的に、私たちは生活の質の向上を求めます。より多くの金を得て生活の質を向上させようと、私たちは社会階級の梯子を昇っていくことに日夜奮励努力します。精神的にも、自分が置かれている社会的状況において必然的に求められる知識の獲得ばかりでなく、好奇心によって、また純粋に自己を精神的に高めようとする向学心によって、私たちは知識の習得と人格の修養に努めます。このように、私たち人間には、私たちをより善きものへと向かわしめる向上心が生来的に埋め込まれています。 また私たち人間には、物事の是非善悪を判断する良心というものがそなわっています。人は悪い事と思えるような行為をしたときには、心のうちに良心の疼きや不安を感じるものです。自分が悪いと思う行為を為して、心に疚(やま)しい思いや良心の疼きを感じない人間は、一人として存在しないはずです。なぜなら、その行為は悪行であると、すでに自分自身が心の中で認めている行為を自分が為してしまったならば、当然、その人間は良心の疼きや罪悪感を覚えざるを得ないからです。 良心はすべての人間にそなわってはいますが、良心の疼きや罪悪感の感じ方が個々の人間によって違うかもしれません。たとえば、心がとても純粋な人であれば、是非善悪の基準が非常に厳しく、自分が他者に対して心の中で不快感や怒りを覚えたというような、普通の人からみれば全くの些事と思えることに対してさえも罪悪感を抱くかもしれません。また、盗みという行為に対しては、基本的に人間は罪悪感を抱くものですが、商店で些少の金額の商品を万引きしたことに対して、罪悪感を覚えない人間もこの広い世の中には存在するかもしれません。万引きという犯罪行為を犯す人間は、その万引きという犯罪が大きな罪であるという自覚がないから、万引きをするのでしょう。あるいは、万引きは犯罪であるという自覚はあっても、生活困窮などの諸々の事情から罪を犯してしまったというような人間もいるかもしれません。しかし、事情が如何なるものであれ、犯罪は犯罪であり、人が法律で罰せられるような罪を犯せば、犯罪の軽重にかかわらず、人は良心を穢し、自己を貶めたことになります。いずれにしても、良心の疼きや罪悪感の感じ方が人それぞれに異なるのは、是非善悪に関する基準と評価が個々の人間によって異なるからであり、意識進化における進歩の度合いに違いがあるからでしょう。 物事の是非善悪を識別する能力が優れ、常に良心に恥じない行いをするように努める人や、精神性において強い上昇志向を示す、きわだった向上心を持つような人は、意識進化の道程で確実な歩みを続けている人であり、自己の裡なる神性意識を着実に開示しつつある人と言えるでしょう。一方、悪行と思われるような行為を為して良心の痛痒を感じないような人や、自分を向上させようとする気持ちを持たず、怠惰で無為な生き方をするような人は、すべての人間が最終的に到達しなければならない、人間にとっての究極目標である神性から遥かに遠く隔たっていると言えるのではないでしょうか。 神という名で呼ばれる神性意識へと私たちを向かわしめる、その原動力である良心と向上心がすべての人間に埋め込まれているのですが、欲に捕らわれてしまった人間は、往々にして良心に背く行為をしてしまいがちのようであり、そして欲深な人間は、神へと至る道から自分自身をそらしてしまって、意識進化の道程において遅れをとってしまうようです。人生に意義があることを知らず、物質に心捕らわれて物欲的な生を送る人々は、多くの金や物を蓄えて、この物質界においては見せかけの満足感と偽りの幸福感を味わうことができるかもしれません。しかし、彼らは真実の幸福を得ることはできないでしょう。金や物という物質の獲得から生じる満足感は、人間にとっての真実の満足や幸福感ではなく、偽りの幸福感であるということの意味は、物質によっては、人間は真の幸福を得ることができないからです。人間の心が、その奥底から求めているものは、向上心、良心という名の精神資質が示すように、根本的に精神的なもの、精神性の充足によってしか、真の幸福は得られないのです。しかし、物質主義的な生き方をする人々は、真実の幸福の意味を知らず、見せかけの満足感と幸福感に惑わされて、精神と霊性の向上を疎かにしてしまうのです。そうした物欲的な生き方を導いている物質主義者たちは、人間に定められた意識進化を果たすことができずに、物理現象界に長く留まることとなり、そしてその結果、霊性における位階を昇って神性へと至ることができなくなってしまうでしょう。 人間としてこの物理現象界で生きている私たちは、私たち人間の内部にある精神資質、良心や向上心ばかりでなく、愛と慈しみ、正義、寛容、容赦などの神の善なる資質を密に涵養し、そしてそれを日常において充全に開顕できるように努め、神の資質を受け継いだ人間の偉大なる可能性に向かって、大切なこの生を向上と上昇の生とするように心すべきではないでしょうか。 |