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精神世界へようこそ・愛と正義

 愛と正義、どちらも抽象的な概念です。愛と正義の本質的な意味について考え出すと、迷路の中に入り込んでしまいそうです。人間が抱く愛と正義は、個人の心の純粋性の度合いによって把握される意味が人それぞれに含みのある観念になってしまいますが、人間の思量が関わらない純粋無垢な愛と正義が神の質と言えるものでしょう。神とは愛と正義であると言い換えることもできるでしょう。神は純粋意識であるという、もう一方の定義から、純粋意識は愛と正義であるとも言い換えることができます。そして、神の愛と、神の正義は、表裏一体であり、この二つを分離することはできません。

 神の本質である愛と正義は、すべての人間に根づいているものです。なぜなら、私たちという人間を成り立たせている意識は、神である純粋意識から顕れ出たものだからです。ただし、私たちの表層の意識は自我意識と呼ばれ、我欲によって曇らされた意識です。我欲という汚れを拭い去った意識が自己の本性意識であり、そしてその本性意識を成り立たせている根本のものが、神である純粋意識なのです。神とは純粋意識であり、私たち人間の奥底の本性です。人間は神から生まれたと言われる所以がここにあります。私たち一人一人が究極絶対神と繋がっているのですが、我欲によって自我本性意識が曇らされて、私たちは神性意識を顕すことができないのです。ですから、宗教、特に仏教では、我欲で汚れた自我を滅することを説くのです。しかし、ただ自我を滅すればそれでよいのかと言えば、決してそうではありません。各個人が有し、主張する自我は、個々の人間存在を為さしめる根幹ですから、これを失えば、人間個人としての存在を廃することになってしまいます。人間の根幹である自我本性意識を滅するのではなく、利己主義という我欲を滅して、神である純粋意識により近づくべきなのです。

 自我本性と我欲を混同してはなりません。自我本性は、個々の人間を成り立たせている根幹のものですが、我欲は個人が持つ欲望です。しかしながら、欲望それ自体は決して悪いものではありません。と言うのは、欲望がなければ、人間は精神的に成長できなくなって、意識進化が果たせなくなるからです。欲望があるからこそ、人間はこの現象界でより多くの経験を積むことができ、精神的にも物質的にも進化することができるのです。けれど、欲望が膨れあがって、自分だけが益することを意図するような強大な欲望になってしまうと、それは他者を害し、また、自我本性までも穢してしまうことになります。強大な欲望は、人間を霊的に下落させる破壊的な力となるのです。人間がこの地上に生まれて、人間として生き、意識進化を果たしていくとき、自我と欲望を切り離すことはできません。自我も欲望も人間存在にとって大切なものではありますが、それらが拡大してしまうと、人間としての進歩向上と霊的上昇を妨げてしまうのです。

 人間は神の分け御霊であり、そして意識であるという成り立ちからして、人は基本的に愛と正義に則って生きています。万人が心の根底に愛と正義を根づかせているのですが、それぞれの人によってその顕れ方に違いがあるようです。心が純粋であればあるほど、人が顕す愛と正義もきわめて純粋なものとなり、不正や利己主義に対して忌避の感情が生じるでしょう。一方、利己的で打算的な人間は、自己の良心に背いて目先の利得のほうばかりに心引かれてしまうのです。非合法な手段で利得を得て、良心の痛痒を感じないような人間は、自分が為した悪行に対し、良心という名の愛と正義によって、いずれはその応報を受けることになるでしょう。愚者は、神なる宇宙自然が示現する厳然たる理法の働きに無知であり、愛と正義に背いた罪は決して軽んじられるべきものではないということを知らないのです。因果応報は絶対的な真実であり、宇宙を統べる神の理法です。そして、自己が為した善悪のいずれの行為に対しても、それを裁量するのは他者ではなく、自己の心の奥底に住まう愛と正義という名の神であることを、すべての人間は心すべきでしょう。

 純粋にして至高なる神の愛を体現することは、私たち普通の人間にとっては容易なことではありません。宗教において名を知られた古今の偉大なる聖者方は、霊性の高みに達して神の愛という至福の中で安らいだことでしょうが、私たち普通の人間にとっては、神の愛とは如何なるものかと想像することさえ難しいものでしょう。けれど、実際には、私たちも神の愛に浴してはいるのですが、私たちはその愛の偉大さを認識していないだけなのです。私たち普通の人間が考える愛とは、男と女の恋愛や性愛と考えがちですが、純粋な愛とは慈愛と言ったほうがより正確でしょう。慈愛は、他者に対して慈しみと思いやりを示す愛情であり、そこには自己愛がありません。他者に対する純粋な愛と慈しみの思いが慈愛と呼べるものでしょう。男と女が互いに深く愛しあい、相手をいたわり、かばいあって、相手のために生きようとするとき、そのような愛はより純粋な愛と言えると思います。そのような愛は何ものにも替えがたく、男女の愛の極致と言えるのではないでしょうか。しかし、純粋な愛を体現している人が現代社会に多く存在するとは思われません。なぜなら、利己主義が放任されている現代社会で、我欲という利己主義を滅して純粋な心を持つ人は稀有といってもよいほどだからです。

 男と女が互いに相手を好きになると、最初は純粋にその異性を愛するのでしょうが、関係が深まるにつれて自己愛が表面に現れ出てくるのが、世間一般の男女の恋愛ではないでしょうか。恋愛関係にある男と女が相手の意に添おうとしているうちは、混じり気のない純愛なのですが、性的な関係が結ばれて、互いに狎れあってしまうと、相手の意を汲むことを疎かにしたり、相手に対する思いやりが欠けてくるようになって、次第しだいに利己的になってくるようです。相手は自分の思うままになるものと思い込んで、相手を粗略にして、自分の思いばかりを相手に押しつける自己愛に変じてしまうのです。もちろん、男女の恋愛のすべてが、純愛からこのような自己愛に変わってしまうわけではありませんが、打算的で自分本位な自己愛を愛と勘違いしている男と女は、当節ではずいぶんと多く存在すると思われます。そして、このような打算を底に潜めた恋愛から結婚に至ると、相手に対して常に不満不足を感じるようになり、本来ならば、蜜のように甘くて豊かであるべき結婚生活が、無味乾燥の夫婦関係となって、性的な満足感を得るためだけと、日常生活の利便性の上から、相手と繋がっているだけの実のない空疎な結婚となってしまうのです。それは、夫婦という名を借りた男女の、自己のために他者から利益を引き出そうとする駆け引きであって、偽りの結婚です。真実の愛の上に築かれていない夫婦関係は脆(もろ)く、いずれ破綻してしまうことでしょう。しかし、霊性が忘れ去られ、物質主義が跳梁跋扈する現代社会では、相手を尊敬し、自己を滅して相手に尽くすというような夫婦は、それほど多く存在しないように思われます。なぜなら、自己を滅して相手に尽くすというのは容易(たやす)いことではありませんし、普通の人にとって、特に現代の若者にとって、利己的な自我を滅することはほとんど不可能に近いと言っても過言ではないからです。

 人は、生きることさえ大変な現代の物質至上主義的な生活環境の中で、そんな綺麗ごとは言ってはいられないと言うかもしれません。しかし、伴侶という自己の分身であるかけがえのない人に対して純粋な愛を自己の内に育むというのは、生涯を通しての自己練磨であり、自己の精神の成長なのです。自分が霊的に成長しないかぎり、純粋な愛を涵養できるわけがありません。自分が成長しないで、相手だけに没我的忍従を望むのは自分勝手というものでしょう。相手に何かを求めるのであれば、まず自分がそれを受けるに値する人間にならなければなりません。ですから、結婚は、人間が精神にも霊的にも成長できる絶好な機会なのだと思います。結婚を通して成長する人々にとっては、結婚は神によって祝福された甘露となりますが、精神的に成長せず、相手にだけ求め続ける自己本位な人々にとっては、自由を失う束縛でしかないでしょう。利己主義に穢されていない純粋な愛は何ものも束縛しません。愛は何も求めず、愛は常に溢れ出ています。愛は惜しみなく与えるものです。なぜなら、愛とは一切に充満している神であり、一切のものの根底にある純粋意識だからです。真実の愛で伴侶や他者に尽くせる人は、愛が涸れることなく、愛はその人に充満しています。そのような真実の愛があるとき、正義もそこにあります。愛と正義は切り離せず、同質のものであり、そしてそれは神そのものなのです。

 

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