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精神世界へようこそ・心の純化と思考の力人がこの世に生を享けて、長い人生を生き抜いていくのは本当に大変なことです。人生には山あり谷ありで、念願していたことや渇望していたことが叶って大喜びすることもある反面、困窮に泣いたり、苦境に陥って苦悩したりすることも多々あります。誰にとっても生きることは大変なことですが、そのような火宅の人生で、人は往々にして心に塵埃を積み重ねて汚濁に染まっていくのです。心が汚れていくのは、苛酷な人生を生き抜かなければならない人間にとって仕方ないことなのでしょう。親から慈しまれて可愛がられるばかりの赤ん坊の頃と自我が目覚めない幼年期は、心が純粋無垢で少しも汚れていませんから、幼い子供たちはまばゆいくらいに愛らしいのです。けれども、自我が確立されて、自己の損得で物事を考えだすようになると、心に塵が積もり始めるのです。 青少年のうちはまだ純粋で、おおかたの青少年は若者らしい凛とした正義感を持ち、高邁な理想を抱いて溌剌と生きています。けれども、年齢を重ねて、妻子を養うなどの大きな責任を背負い、世の中の諸々の制約を受けて生きなければならない大人になると、世間の荒波にもまれているうちに、自分が得をするように楽をするようにという利己的な考え方に汚染されて、汚濁という塵をさらに心に積み上げていくのです。人間は楽をして生きようと考えて無い智慧をしぼり、そしてまた、そうした方面にだけはよく頭を使うことができるのです。けれども、安易な生き方に身をおくと、人間は精神的に堕落してしまうでしょう。心が汚れて精神的に堕落すると、その結果として、正しく考える力を失います。心の純化と思考力の増大は正比例しています。心の汚れが取り除かれて、心を純化すればするほど、また人間が純粋になればなるほど、人間にとって物事を正しく考える力が増大して、智慧が身にそなわるようになるのです。これは不思議なことですが、絶対的な真実です。 学生はいろいろなことを学び、知識を得て思考力を身につけていきます。しかし、学生が思考力を身につけるのは、あくまで学問的な知識を介してのことです。人が社会に出て、職を得て働くようになると、その仕事を通して、また職場や社会の人間関係を通してさまざまなことを学んでいきます。さまざまなことを学んでいくのですが、そのとき、問題や事柄に対して誠心誠意で対応するか、あるいはいい加減な対応で事柄を処理するかは、人それぞれに異なります。そして、事柄や問題に対して人がどのように対応するかという、その対応の仕方が、その人が思慮深い人間となるか、あるいは思考する力が欠落している凡庸な人間となるかを決定づける要因なのです。ある問題に直面したとき、自己本位な人間であれば、その問題が自分に益をもたらすようなものであれば、深く関わろうとするでしょうが、自分にとって厄介で、何も益することがないと判断すれば、その問題に関与する自分の労と時間を惜しんで、深く考えることをしないで手っ取り早く片付けようとするでしょう。他方、正直で誠実な人であれば、その問題に関わる自分の利益不利益を考えることなくして、問題をさまざまな角度から考察して最善の解決策を得ようと努力するでしょう。ここに両者の違いがはっきりと現れ出ます。心が純粋で誠実な人間はどのようなことに対しても誠意を以って対応するでしょうし、心の純粋性を失った利己的な人間は損得勘定が先に立つでしょう。純粋な人間はいろいろな事柄に対してよく考えますから、思考力が身につき、そして熟考を重ねることで深い智慧が身にそなわってくるのです。自分の損得勘定が先に立つ利己的な人間は熟考することができず、場当たり的に事柄を処理するので、生涯に亘って正しい思考力を身につけることができません。物事を考えるにあたっては、正しく考えるべきであり、自分の利害を念頭に置いて考えてはならないのです。世の中には正義の理法が厳然とあるのであり、それは国家においては法律と呼ばれ、世間においては物事の道理と呼ばれます。人は物事の道理を知って、それに基づいて身を処していかなければなりません。自己の私利私欲を介入させることなく、宇宙を統べる自然の道理に則って事柄や問題を処理すべきなのです。私利私欲を離れた汚れのない心で、処世に徹すれば、心やましいことが一切なくて、自分を害うことなく、常に安泰で心安らかな人生を楽しむことができるでしょう。ですから、人は心を純化して、物事の道理に則って正しく考えることが大切なのです。心を純化するほどに、物事を正しく考える癖がしっかりと身について、そして思考力も増大するのです。 より多くの利益を得ようとして、智慧を悪いことに使う、非常に物欲的な人間も世間には多く存在します。物欲的な人間が悪智慧を用いて多くの利益を得たとしても、不思議なことに悪銭は身につかないものです。不正手段で得た金はその人間のところに留まることがなく、病気や怪我や事故、事業の失敗、失職、投機の失敗など、諸々の災難や不幸によって、金はどうあってもそこに留まらないで流れ出てしまうのです。金が残らないから、また心ひそかに奸計を企んで、利益を得ようとします。物欲によって人間はますます堕ちていきます。智慧を悪いことには使えても良いことには使えない人間は、最終的に法の刑罰を受けるほどの悪人となって、自らを破滅させてしまうでしょう。凡夫は、自分がやっていることは皆がやっていることと同じであって、法の裁きを受けるような大罪ではないから大丈夫などと考えますが、罪に大小はありません。人に知られず些細な罪を重ねていけば、心の垢は大罪人の心の汚れと同様なものです。なぜなら、良心がほんの少しばかり疼(うず)くくらいの些細な罪を何度も重ねていると、そのうちに良心の呵責を感じることがなくなってしまい、罪意識が消えて本当の悪人になってしまうからです。殺人は大罪ですが、心の純粋性という観点に立てば、贈賄と収賄という汚職も大罪です。私利私欲のために悪智慧を絞る人間は、人から嫌われ、爪弾きにされて身の置きどころを失い、世の中に受け入れられず、ますます自分を貶めていきます。心悪しき人間が栄耀栄華の喜びを味わったり、栄誉栄達を得たりして有頂天になったとしても、それはほんの一時期のことであり、最後にはすべてを失うのは必然の理です。 心が正しければ、正しい智慧が自然に身にそなわり、心が邪悪であれば、考えることもまた邪悪なものです。それゆえ、心の中に邪まな思いを入れないように、常に心して正しいことのみを考えて生きるべきでしょう。そのようにして心を純化していけば、よりいっそう智慧が深まって、人々から重宝がられ、社会で頭角を現す有能な人となるでしょう。結局のところ、心を純化するということは、霊的に進化することであり、霊的に進化することとは、すなわち普遍智が身について思考力が増大するということです。霊的に向上すればするほど、智慧はより深くなっていきます。なぜなら、心を純化して霊性を究めた究極のところが神意識であり、そして神意識とは普遍智そのものであるからです。従って、心を汚すことは霊的に堕ちることであり、霊性において堕ちるとは、智慧を失うことであり、考える力を失うことなのです。 従って、長い人生を慮って、その人生を善いものにしたいと願うならば、まず心を純化して、考える力を増強し、正しい智慧を身にそなえて生きていくことでしょう。そのために人が実践すべきことは、仏陀の教えである八正道が最も適切であろうと思います。八正道とは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定という八つの正しい道であり、それぞれの意味は、正見は物事を正しく見ること、正思は正しく考えること、正語は正しく話して嘘をつかないこと、正業は正しく行為すること、正命は正しく生活すること、正精進は正しく仏の道に進むこと、正念は正しく仏道を思念すること、正定は正しい瞑想をすることです。仏道に興味があれば、八正道をただちに実行したいところですが、自己を正したいと思う人であれば、正見、正思、正語、正業、正命だけでもすぐに実行できることではないでしょうか。それらはふだんの生活のあり方を指摘しているだけのことです。物事を正しく見て、正しく考え、嘘を言わず、間違ったことをしないで、規則正しい生活をすること、これは全く当たり前のことを指摘しているにすぎません。けれども、この当たり前のことを徹底させることが大事なのであり、これらの生活指針を中途半端にしてはならないのです。霊性におけるこれらの基本命題だけはしっかりと守って日々を過ごすならば、人は正道を歩いているのであり、迷いのない晴朗な心で安泰の人生を築くことができるでしょう。人が八正道を正しく実践するならば、宇宙の理法に則って生きていることになります。理法に則って正しく生きていれば、自然法爾で霊性を高めていることであり、ことさらに修行をしなくても霊性において進化していることなのです。
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