ホームページの顔などの写真は読者へ何かを伝えるためですか?
北沢先生へ
貴殿のホームページを見て、初めてメールを出させて頂きます。
小生は、米国在住の44歳になる男性です。十五〜六歳のころ空手を学んでいたときに、左ひざを蹴られて以来、長年、坐骨神経痛で悩んでおります。瞑想や呼吸法も練習に取り入れていたので、多少気功などにも興味があります。昼間は、コンピューターの前に一日中座ってトレーディングをしていますので、その影響もあると思います。
質問です。気功等の治療をなされる先生方のウェッブサイトを見ましたが、唯一、貴殿のホームページに貴殿の写真が貼り付けられています。その写真からすると、何かのエネルギーがかなりの量で放出されているようですが、これは、意図的に読者へ何かを伝えるためでしょうか?
不思議なことに貴殿とは誕生日が同じで、12年違いです。探究心が旺盛な貴殿のプロフィールもすばらしいと思いますし、哲学家からの質問に対する返答も感銘を受けます。来年には東京へ行きますので、その時に治療に伺わせて頂きます。
以上 米国フロリダ州在住 藤田 ○○
お便りありがとうございます。写真を載せている件についてですが、別段の意図はありません。しかしながら昨今、気功セミナーやレイキセミナーなど目に余る状況にあります。例えば、考えられないような高額の金銭を要求するなどです。私がその様にならない為に戒めの為とも言えます。
何故なら、写真を載せておくことは、誓いそのものと考えても良いと思うのです。言い逃れは出来ないですから。更に申せば、皆様に私の顔を知って頂き少しでも安心して頂きたいからなのです。
クンダリーニや悟り等について
北沢勇人様
私はイギリスの大学の博士課程で西田哲学の絶対無などについて論文を書いている者です。本山博氏と禅を基本とした西田哲学の比較などを書いています。そちらのホームページが大変充実し色々勉強になりました。有難うございました。
ご自身が大変稀な素晴らしい体験をされているので、クンダリーニや悟り等について質問をさせていただきたく、イーメールを書くことにいたしました。お手数ですが、ご返答どうぞよろしくお願いいたします。(このイーメールと同じ内容をアタッチメントとしても送りましたので御活用ください。)
禅の教え、現代の禅においては特に、今ここそのものが、そのままで絶対だ・全てだといいます。悟りにレベルや種類などない、当たり前のことが当たり前にわかるだけなんだ、悟りは難しいのでなく、簡単すぎて当たり前すぎてわからないのだとよく禅などでは言われます。その当たり前が釈迦の教えであるとも説明されます。(言語化される前の状態で、全てが一体である自然な状態のことが現代の禅の中でよく言う見性・悟りだと理解しています。)レベルがあるとすれば、あくまで一つでしかない悟りの内容をどの程度普通の生活に浸透させているかの違いだけである、とよく言われています。クンダリーニで経験される色々な現実の事は禅等では出てきません。(しかし私自身は毎日座っていても禅の悟りはまだ開けません。又クンダリーニの呼吸法やシャーマニズム等もやっています。)
禅では、この世の中と空以外は全て魔境でみんな主観的な作り話か、そこまででないにしても(邪)魔であるとして、中間世界の話は一切せずに、今ここが全てであるとして、この世がそのままでニルバーナだとします。(しかし禅以外の仏教の学派やヨガなどでも三昧の深さなどについてかなり詳しく書いてあります。)アメリカ人で禅の体験をした学者のケンウイルバーなども禅や絶対無(空)は変性意識とは全く関係ないと断言します。
しかし私の周りにもいる禅やチベットの仏教などで悟りを得られた人達が、とても絶対をわかっているとはとても思えません。絶対を悟っているのでなく、ある限定されて意味での悟りにしか見えません。西田も見性の体験者ですが私はよく現代の禅にあるような当たり前の当たり前のそれを悟ったのだと思います。しかしこれがどう考えても究極の本当の悟りであるとは考えられません。
しかしどう見ても真剣に追求すれば、この世の中以外の現実があるのは疑いがないようですし、又変性意識が大変重要なのも間違いありません。本山博氏の著作にも詳しく様々のレベルの意識や現実界の話が出てきます。本山博氏は今の禅の多くの悟りや西田の体験した絶対無はまだはじめの段階に過ぎないと書いていますし、釈迦の体験も高いレベルのクンダリーニの体験(と関係ある)であると考えておられるようです。
今の禅の考えでは、気やチャクラの話はほとんど出てきませんが、道教でも気のレベルを、精から気、そして神に上げて、最後に虚に還えるといわれます。しかしこちらでの曹洞宗の禅を教えておられる方は、気は全くの幻想で、クンダリーニはただのイメージ化幻想であると考えています。又同じ様に、ほとんどの西田哲学の研究者も絶対無とクンダリーニや気の話は無関係だと考えているようです。(さらに複雑なことに、禅でも小悟と別に大悟という言葉があるように、人によっては見性体験(の様なもの)を何度もして、前の見性体験はまだ本物でなかったと言うようなことを言う人もいます。)
また武道家の新体道の青木氏や道教(太極拳)の島田氏もまた絶対無のようなものを体験されました。昔から気と悟りや空の体験は大変難しく入り組んでいます。仏教学の鎌田茂氏はこのことについて呼吸法の観点から、気の伝統と言う本を書かれ、また禅の瞑想と合気道両方されているのですが、禅と合気道という本に出てきますが、目的やプロセスは両者ほとんど同じと考えています。(日蓮宗の影山教俊という方はヨガを取り入れていますが、しかし既存の仏教からしたら、クンダリ二ーや気のことはとても簡単には受け入れられないでしょう。)
それでお聞きしたいのですが、
1そちらで言う悟りとよく現代の禅で言う「悟り」や絶対無とご自身の体験は、どのような関係にあるとお考えですか。本山氏のように現代の禅はまだ入門のレベルで止まっているとお考えですか。本山氏はまだチャクラやクンダリーニの十分な活性化がないうちで、体験される現代の禅の絶対無というものの多くの場合は、まだ無と言ってもほんの入り口で体験されるものとお考えです。それともご自身で体験されたものと、現代の禅は(水と空気という別の物が比べられない様に)それぞれ別の方向を目指すものとお考えですか、それとも二つは経験の深さのレベルが違うのですか。
そうですね、最近曹洞宗のお坊さんが訪れたときにも話しましたが、禅ではクンダリニーの事柄やチャクラの事柄は問題視していないようです。しかし、以前には、光の体験やクンダリニーの上昇体験をした方は確かに存在していたことなどは確認されています。
その方の意見も、また私の意見も同じなのですが、確かに禅が進んで無意識状態に入ることは事実である。その後もっと修行が進んでくると光の体験や幽体離脱、更には空間から声や音が聞こえ出す事が事実である事から、本山氏の言っている事は正しいと考えられる。
その幽体離脱や光を受ける体験を何度も経験すると、チャクラの覚醒やクンダリニーの上昇体験をするからには、確かに禅は無意識の世界のほんの入り口と言っても良いのではないかと思う。ですから、簡単に言うのであれば禅の修業が本当の意味で進んでくるとチャクラの覚醒やクンダリニーの上昇体験をするように思う。
つまり、経験の深さというか本当の意味での自然のあるべき姿となっているかが違いであると思う。ところでチャクの覚醒体験やクンダリニーの上昇体験をする場合に最も注意をしなければならないのは、あくまでも自分自身のこれまでの体験内容が主体となり現象となって現れるので十分理解しておく必要がある。
また、チャクラが覚醒しクンダリニーが上昇したから悟ったとの意見も多い、しかし、私の経験から、確かにクンダリニーの上昇体験後文章にて表す事は全くできない経験をする。その経験の中で最も感じるのは、死を初めとし、様々な事柄に対しての恐怖が極端に無くなる。様々な事柄に対して恐怖を感じられなくなるのは、一般に喜怒哀楽と言われている事柄に対して執着が薄れ、自然のあるべき意識状態になってきたからとも思える。
その他には、神は宇宙全てであり、一体のものであること、更に人間もまた宇宙の一つであり神と同一であること。よって、どの方々にも境目が無く同一のものであると感じる。つまり一般に言われている、確かに表裏については存在するが、善とか悪とかは存在しないことになる。
何故なら、善も悪も表裏一体であり、神そのものである。要するに、病気をすることも表裏一体であり、自然のあるべき意識状態になっていない為に発生すると考えられる。だからこそ、瞑想や呼吸法によって、心を安定させ、自然の意識状態とは如何なるものかを思考することが太古の昔から珍重されていると思われる。
一般にサイ能力とか超能力などと言われているが、気功治療や他の様々な治療方法に比較して圧倒的に勝っている能力が授かり、例外も確かに存在するが、精神的病気をはじめ、どのような病気であっても改善させる能力が発揮できるようになっています。病気などの治療に来た方の将来についてや、何故にこの病気などになったか、更には、性格や生い立ちなども以前の自分とは比較にならないほど正確に判断ができるようになっています。
病気などを治したり癒したりする素晴らしい能力も授かった。しかし、病気を治したり癒したりする能力を授かったと言っても、中々信用されることはないので苦慮しています。何故なら、過去にも現在にも問題視されているが、自分はサイ能力者とか超能力者であるなどと称して騙したとか、騙されたとかが多いためと考えられる。つまり、現実にはあり得ないのだとして信用されなくなっているのが現実である。
また更に、どのような問題や事象であっても、全てが必要不可欠であると感じる。例えテロと言われる事柄であっても、必要不可欠と感じるのですから理解に苦しむことばかりである。更に修業が進んでくると、更に様々な体験をすることから考えれば、悟ったとはクンダリニーの上昇体験やチャクラの覚醒体験があった場合だけに言うのではない事が考えられる。
要するに進めば進むほど悟りの境地は変化するものであり、一概に私は悟ったなどとは述べるべきではないように考えています。私は悟ったなどと述べる方にあったことがあるが、考えものであると考えさせられてしまうのが現実であった。
京都学派の久松氏はほんの数日で悟ったようですが、そのようなことができるのも、禅から言えば、たとえ変性意識が大変な深い段階まで在ると認めたとしても、その意識の核・根本自体は普通の意識の核・軸と同じであり、神様が高い現実をマネージなさるのも、私があくびをするのも、どのような出来事や存在もある同じ軸をとうしてその軸が行うのであり、それはいくら意識の状態を高く改良しても、核・軸自体は経験できないので、意識の高さや深さなどの内容でなく内容を形づくっているものを悟るのが悟りだ、これがよくある禅や西田の主張だと思います。
これであってそれではない、例えばある意識の状態であって他の意識の状態ではない、とはもう言えないもの、それが禅の悟りの内容の様です。しかし問題は、本当にその様な全て根本の根本である軸・場所が禅の人や西田に経験されているのか、そのような全ての根本が、高い現実界を経過しないでも、いきなり究極まで普通の立場からジャンプできるのか、と言うのが本山氏の批判です。
2ご自身の場合は、ホームページによりますと空・無を物質界から精神世界の移行段階で経験した様です。ということは、空・無はひとつのレベルから次のレベルに移行する時に、(例えばこの世界からアストラルに移行する時や、アストラルからカラーナに移行する時)、よく経験するもの考えられますか。
しかし必ずしも無の体験を通過しないでアストラルに急に行く霊能者・宗教家もいます。無の体験は絶対に高い世界や広い世界を体験するのにいつも必要でもないようです。ですから、上の現実界にジャンプするときにする時だけでなく、いつの段階でも経験できるものですか。
無意識の状態にならずにいきなり様々な体験をできるかとのことですが、無理と考えられる。私の場合無意識の状態を通過しない状態にて体験した事柄は全く存在していない。と記憶しています。ただし、私のところで天啓気療(天啓気功療法)をうけた直後からチャクラの覚醒は勿論、クンダリニーの上昇体験などを経験する方が存在していることから、数日で悟ったと言われても絶対にあり得ないと批判するのには無理がある。私の場合なども、激しく苦しい修業を長期間に渡り行っていたとは考え難いのであり、必ずしも凄い修業をせずともチャクラの覚醒やクンダリニーの上昇はあり得ると言える。
様々な体験が繰り返される毎に確かに無意識の状態になり、その後以前とは異なる事柄を体験するのですが、繰り返される体験回数が多くなると、その後体験する事柄も変化をしていく、そしてその現象体験の一部である光の体験のみを述べれば、最初の頃は、必ず様々な色がついています。
更に修業が進んでくると、体験する光には色が薄くなり、最後には輝くばかりであり色が付いているとは考えにくいように光輝くと解釈してもよい。要するに修業を重ねることによって、アストラルと言われる次元からカラーナと言われる次元に移行していくものと考えられる。
いつの段階でも体験できるのかとのことですが、様々な体験は、確かに7年から8年前後続いていたが、現在は変化を歴然とは感じられない。しかし現在では、幽体離脱しているはずもないのだが、幽体離脱をしている状態と同じ感覚を感じる。光の体験などもしているはずがないのに、やはり光り輝いているように感じる。幽体離脱の場合も光の体験の場合も、以前体験したように色が付いていたり形が感じられないのが不思議でならない。
要するに何時までも同じ現象や体験はないのではないか。例えば光が光の世界に合一した場合光は感じられないのではないか、また、同一の次元に合一した場合同一の次元は感じられないのではないか。そうであるかさこそ、私が、病気などになった原因を話しても、病気になり易い次元と合一した状態になっている為、理解できないのではないかと思う。次元を変えるとは、生き方そのものを変えなければならないので、中々変えられないのかも知れない。未知の次元の世界に入ることなのですから当然とも言える。
様々な段階で「絶対無」のような体験をする可能性がある。その人の成長の段階に応じた絶対無(に思えるような経験)を通過する、と解釈してもよろしいのでしょうか。西田や現代の禅でよくある、当たり前の当たり前を悟る様な悟りでは、「宇宙と一体化」したと言葉で表現されても、そのように比喩が用いられるだけで、ご自身や本山氏のように本当に自分の意識が実際に広がったのではないと思います。禅のような本当に広がったのではない意識で経験されるような無とは、まだレベルの低い無なのでしょうか。ご自身はどのような種類の無を体験されましたか。
絶対無とかの表現は不自然と言えるのではないかと思う。確かに無意識の状態にはなる。そして、無意識の状態に入っていくことは実は大変な恐怖が伴っている事も知っておく必要がある。無意識の状態に入る際、全ての事柄がこの世から消えてしまう錯覚と言うか感覚があるからである。
詳しくは、私のホームページの【チャクラの覚醒及びクンダリニーの上昇が始まり、想像を絶する恐怖体験及び食事が全く取れなくなる】や【チャクラの覚醒時やクンダリニーの上昇時なぜ心身的苦痛も体験する】のページなどを参照すると理解ができるのでは。なお、私が手をかざすことにより病気の治療などをした場合に好転反応らしき現象があるが、この現象もまたチャクラの覚醒時やクンダリニーの上昇時に体験する事柄と同一と考えるべきなのかも。つまり、急激に心の変化及び肉体の変化が起こるためと考えられる。よって、大変なる恐怖体験などもあり得ると考えるべきである。
禅(や密教を除く多くの仏教)の様に無の世界だけでどんどん上昇できれば、アストラルに入るときの無、カラーナに入るときの無、プルシャに入るときの無、生死の場所に入るときの無、そのあとに予感だけできる究極の無と言うように、一挙に上まで行けるのかもしれません。(事実そのような前提で禅は成立しているかもしれません。禅はカラーナなどのある特定の領域の中へ行くようなことを一切行いません。)
質問は以上でございます。ご多忙の中大変申し訳ございません。本当に高いレベルの体験をされた方は実に少ないようで、そのような方に質問を答えていただける事は本当に素晴らしい事と感謝いたしております。どうぞよろしくお願いいたします。
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